2014年09月

山が動くとき

御嶽山が噴火した。28日夜現在、心肺停止者が31人いると伝えられており、残る入山者の救出を祈りたい。
実は「おんたけ山」は国内にいくつもある。通常は長野・岐阜県境にある3067mの活火山のことを指すが、わが国の山岳信仰の大きな柱としてこの御嶽山がある。思うに、あの雄渾(ゆうこん)な山容が信仰の土壌に繋がったのだろう。敬老の日に小欄で、小説「楢山節考」の姥捨て伝説に触れたが、日本人の「山」への敬虔(けいけん)な思いは深く独特なものがあると思える。そのルーツは古事記の海彦・山彦にまで遡ることができる。

偶然に驚いたのが、火山列島ニッポンの報道一色のきょう、元衆議院議長の土井たか子氏が亡くなったと報道されたことだ(20日死去、肺炎。85歳)。
土井さんといえば、社会党(現社民党)の顔であり、護憲運動の中心として当時の中曽根首相と対峙。そして消費税・リクルート問題で揺れた平成元年参院選挙での躍進時の発言、「山が動いた」が代名詞となった。55年体制の終焉期に、選挙民という名の巨大な山を動かし、自民一党支配体制の修正を迫る舵切り役となった。
若い人には「土井たか子、Who(誰)?」ということになろうが、法学部卒の自分にとって、彼女は大きな存在だった。彼女はもともと憲法学者だったからだ。

東京・早稲田で学んでいたころ、あるサークルに入っていた。憲法を知り、守るのが目的のマイナーな集団。日本は民主主義国家だが、それはほぼ法治主義国家といってもよい。そして星の数(約2000)ほどある法律の極北に輝くのが憲法である。まだケツの青かった若造は、法学部で学ぶことイコール憲法を学ぶことだと考えていた。
基本的人権や平和主義について、よく深夜までケンケンガクガクの議論をしたものだ。もちろん、そのかたわら四人で卓を囲んで中国語(ポン・チー・ロン)も勉強した。

「おたかさん」の愛称で呼ばれた土井さんは、筋を通すことで知られていた。「ダメなものはダメ」も、彼女を語る時のフレーズとしてよく使われる。おそらく、憲法学者としての職業的資質とでもいうべき性格から来たのだろうと思う。男女差別の問題にも敏感で、女性初の衆議院議長として登壇した当時、男性議員も「さん」づけで呼んだ場面は今も耳に新しい。ジェンダーという考え方を知ったのも彼女がきっかけだった。

時は川のように流れる。いっぽうで川の湧出源となる山は、いっけん動かざるかのごとくに見える。しかし、いずれも自然の循環のなかでのこと。今回の御嶽山のように、噴火は起きる。山の神にしてみれば、ときおりくしゃみをするような事に過ぎないのだろう。人間の時間の尺度だけでものを考えないことも時には必要なのかもしれない。犠牲者を人身御供として神話化するだけではない知恵を、ひとは持てないものか。

虎穴に入りたがる人たち

「危険ドラッグ」が原因で救急搬送された人は過去5年半で4469人に上ることが消防庁の全国調査で分かった。初年度が30人、一昨年は1785人と急増しており、当初の「脱法ハーブ」という緩やかな表現も手伝ったのか、またたく間に日本中を席捲した。
しかし、その成分の危険度は麻薬・覚せい剤並であり、リスクを冒して摂取する若者が後を絶たず、交通死亡事故も目立つ。ついに警察は、危険ドラッグ常用の疑いだけで免停を命じることができるようになった。

危険ドラッグで思い出すのは、30年以上前の映画「セーラー服と機関銃」(相米慎二監督)だ。ヤクザの組長を継いだ女子高生役をまだ初々しかった薬師丸ひろ子が演じ、最後にセーラー服姿で機関銃をぶっ放して「カ・イ・カ・ン」とつぶやくシーン。
その10年後、わが高校の後輩服部剛丈君が米国留学中に射殺され、銃社会論議に火が付いたが、いまだに状況は変わらず、同様事件が繰り返されている。

哺乳類としてのヒトは、進化するにつれて脳を大きく、複雑化させた。たとえて言うと、アボガドの種にあたるのが脳幹で、呼吸や体温など生存に不可欠な中枢がある。その周囲の実の部分が辺縁系と古皮質。ここに感情や記憶など人間が社会的動物として生きるための司令塔がある。さらにその周囲の皮にあたるのが大脳新皮質で、感情を司る知性・理性の宿る場所だ。
ドラッグ、アルコールなどさまざまな依存物をヒトは利用する。人間は他の動物と違い、ただ生きるだけでは物足りなくなった。おかげで文明を発達させ、この地球でわがもの顔をするようになったはいいが、その反面で危険を顧みることなく地球環境を破壊してきた。つまり、自分で火をつけては消す”マッチ・ポンプ”を繰り返している愚かな生き物でもある。
動物にも殺し合いはあるが、それは種の保存の観点から必要最小限なものに限られ、とくに同種どうしでの殺戮は、霊長類ではヒトとチンパンジーのみといわれる。
最近、京大霊長類研究所などのグループが行った研究によると、チンパンジーの仲間殺しは、人間による森林開発など人為的要因に関係なく、所属する群れや自らの利益のために本能的に備わっているものだという。彼らとヒトは同じ祖先から枝分かれ進化したことはわかっており、人間の暴力性の起源は、そこに遡ることができるのかもしれない。やっかいなのはヒトの場合、危険を冒すことが快感につながる場合のあることだ。

Danger(危険)の文字は、多くの人には災難を避ける警告となるが、ある者にとっては、逆に蠱惑(こわく)的にうつるのだろうか?虎穴に入らずんば虎児を得ず。危険ドラッグの使用者には、罰則よりもタイガーマスクの”虎の穴”を経験させるべきかもしれない。

いつか行く道

15日は敬老の日。兵庫県多可郡野間谷村が戦後提唱した「としよりの日」がきっかけということだ。農閑期のこの時期に年配者の知恵を借りた村作りを狙ったもので、それが昭和41年(1966年)から国民の祝日となった。
我が国の人口1億2700万人のうち、4人にひとりが65歳、8人にひとりが75歳以上の高齢者。とくに100歳以上の長寿者は調査開始年(昭和38年)には153人だったのが、平成10年には1万人に達し、現在は58820人にのぼる。「きんは百歳、ぎんも百歳」のコマーシャルが懐かしい時代に突入している。

一宮むすび心療内科でも年配の患者さんは増加中で、65歳以上の方が15%を占める。三年前に”五大国民病”に指定された精神疾患だが、その中でも認知症とうつ病は特記されている。高齢化で増加する一方の両疾病の対応が急務とされるためだ。きょうはその認知症についてお伝えしようと思う。

少し前まで「痴呆」と呼ばれていた狭義の認知症は、文字通り、記憶や見当識[今が何月何日で、ここはどこかといった時間空間などの認識力]のような認知機能が後天的に低下した状態を指す。老化に伴う生理的な認知機能の低下[物忘れなど]とは区別される。これは大事なポイントだ。よくいわれるように、朝ごはんのおかずが思い出せないのが生理的物忘れ。食べたこと自体を忘れていたら認知症の疑い濃厚といった具合だ。
認知症とは別の疾患により一時的に同様の症状を呈することがあり、医師にとっては鑑別すべき重要点だ。例えば、アルコール依存症の老人に認知症状が表れた場合、ビタミン不足でなる場合もあれば、知らぬ間に頭を打って血腫(血の塊)が脳を圧迫して似た症状を起こすこともあり、さらには、アルコール性うつ病による抑うつから仮の認知症に陥ることもある。

有津背馬さん(69歳)は定年後の再雇用で働きだしたころから物忘れが目立ち始めた。本人は気にしていないのだが、妻を早くに亡くして一人暮らしであり、近くに住む家族が心配して受診された。生活の段取りが滞り、鍵や銀行通帳を忘れるなどはしょっちゅうで、いつぞやはガスコンロの煮物鍋に火をつけたまま散歩に出かけ、鍋が焦げてボヤ騒ぎとなった。
問診だけからでも、認知症の可能性が大きい。症状が確実に進行してきており、日常生活に支障が出る。そして本人に自覚のない点が見逃せない。精神医学では、病識がない、と表現するが、これがなかなかやっかいだ。
客観的指標としては、脳波や頭部MRI、SPECTといった画像検査があるが、当院のようなクリニックではできない。それをカバーすべく院長の前勤務先や市民病院と連携を取り、検査依頼体制を組んであるのでご安心を。
また、基本検査に長谷川式認知症スケール(HDS-R)がある。これは認知症を疑うすべての方に実施するが、それ以上に詳細で、認知症の大半を占めるアルツハイマー型の認知機能を測る面接検査ADAS-Jcogのコンピュータ機材を最近導入した。定期的なチェックにより病気の進行具合が予測できる。

と此処まで書いて、しかし思うのは、認知症は治すべき疾患か?という本質的な問いである。
認知症の社会的問題は病気そのものよりも、そこからくる徘徊や他者への暴力、事故など[BPSDと呼ばれる]が中心だ。認知症男性の鉄道死亡事故で、介護家族の責任が問われる判決が出て論議を呼んだのは記憶に新しい。”老老介護”の問題も身につまされる。
この機会に、戦後小説の金字塔といわれる深沢七郎の『楢山節考』を久しぶりに読み返した。長野の寒村を舞台にしたこの姥(うば)捨て伝説の話は、身震いするほどに鬼気迫る。その一方で、方言を交え、飄々(ひょうひょう)とした筆致と主人公の老女「おりん」のある意味突き抜けた性格造型のせいか、妙な明るさも併せ持っている。70歳になれば、食い扶持(ぶち)のために人生という舞台から去るのが運命(さだめ)とでもいうかのように、、、。

おん年81歳の永六輔さんは尊敬するひとり。彼の著作『大往生』にこうあった。
「こども笑うな きた道だもの、年寄り笑うな いく道だもの」。






阿修羅は虫の化身?

先日、京都方面に出掛けたときのことを記しておきたい。
安楽死を扱った鷗外の小説「高瀬舟」の舞台、高瀬川沿いにある老舗料亭で、新聞社入社30周年の同期生が集った。辞めてすでに20年余の僕にも、律儀に声掛けする旧友の恩に頭の下がる思いだった。鳥の水炊き鍋を突っつきながら、思い出話に花を咲かす25人。髪と体型が過ぎ去りし時を物語る。
気を利かせたK君が新入当時の社報コピーをみんなに配った。初々しい顔写真わきのコメントに彼は「何事にも心を忘れない」と書いていた。僕のを見ると「今この時を大切に生きる事」とある。
酔いも回って締めは、鴨川にせり出す木床を背に記念撮影。都を貫く黒々とした流れにちょっぴり感傷的になった。

翌日、僕は奈良に向かった。急行電車で40分。目的地は興福寺。
奈良には何回も行ったが、藤原氏族の氏寺である興福寺にはこれまで縁がなかった。向田邦子原作のテレビドラマ「阿修羅のごとく」を観てから、同寺にあるあの阿修羅像を直接この目で確かめないと、という想いは募ったままだった。
定年までを平凡に生きた典型的会社員の父親が、他所で女性との関係を持っていた。それを知った四人の娘たちの心は揺れる。はた目には幸せに見える家族それぞれが互いに言えぬ秘め事をもち、心の揺れ動くさまを描いた。その修羅場を黙ってやり過ごす妻/母の隠れた怒りが、孫のおもちゃ車をふすまに投げつける仕草で表現され、それをタイトルで言い尽くしているところが凄い。あの眉の吊り上り方は忘れられない。

興福寺の国宝館には100点近い国宝・重文が陳列されている。順路の最後、天平彫刻の八部衆が立ち並ぶ中ほどに屹立するのが「阿修羅像」だ。三面六臂(ろっぴ)の独特の姿は遠くからでも目を引く。近寄って、真正面から観る。像は中学生ほどの身丈だが、台座の高さ分だけこちらが見上げる形になる。
ほかの寺社の阿修羅像(京都・三十三間堂などいくつかある)と違い、「凛々(りり)しさ」が際立つ。怒りとも悲しみとも異なる、形容詞ひとことでは言い尽くせない静けさと奥深さを感じる。あの視線はどの地点・時点を見据えているのか。
ふと、思ったことがあった。アレは”虫”ではないのか?昆虫の体節は3つで阿修羅の3つの面に対応する。なにより、あの直線的な6本の細長い腕は昆虫の脚そのものだ。そう仮定すれば、インド神話では戦闘の神とされたアスラが日本に渡って阿修羅となった歴史の流れから、憤怒の情にあふれていてもよいはずの阿修羅に似ても似つかぬ表情の謎が理解できる。
では、なぜ興福寺の阿修羅は昆虫なのか?そこがこの仮説の難点だが、ひとつ考えられることがある。
阿修羅は仏を守る八人衆のひとりで、ほかの像には鳥顔人体や、ゾウの冠を被っているものなど、動物との関連が深い。阿修羅にも動物との関連があって不思議はない。
きょう7日は興福寺の造営主である藤原不比等の娘、光明子が皇室に嫁いだ日とされる。昭和・平成では民間からの皇太子妃が話題となったが、その”ルーツ”は遠く天平の甍(いらか)時代の光明皇后だ。彼女はのちに悲田院・施薬院を興した。
それを思うと、阿修羅像のあのまなざしのワケが少しだけ、わかった気になるのだ。衆生救済の心を氏寺の守り神のひとり、阿修羅に託したのではないか。

向田さんはどんな想いで、あの澄んだ目の少年像を見つめ、あのドラマを作ったのだろうか。

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