小春日和の勤労感謝の日となった。やわらかな陽差しを受け、街路樹のイチョウも黄金色に輝いて、こころを穏やかにしてくれる。冬将軍到来前の、のどかなひととき。防寒の備えをそろそろしっかり、、、と思うきょうは「手袋の日」。

手袋と聞いて多くのひとが思い起こすのは新美南吉の『手袋を買いに』だろうか。小学校教科書の定番。子狐の純情と母狐の親心が短いやりとりに凝縮され、手袋を買って帰った子狐につぶやいた母狐のひとことが人間社会への痛烈な批判になっている奥深い童話。「ほんとうに人間はいいものかしら」―――

僕が手袋で即座に思い出すのが向田邦子のエッセイ『手袋をさがす』(夜中の薔薇に所収)。47歳の時に22歳の頃を思い出して書いたもの。直木賞受賞4年前の文章だ。
当時、東京・四谷の教育映画製作会社勤めだった向田さんは、ひと冬を手袋なしで過ごした。お気に入りが見つからなかったのが理由だ。
「一体どんな手袋が欲しくてあんなやせ我慢をしていたのか全く思い出せないのがおかしいのですが、とにかく気に入らないものをはめるくらいなら、はめないほうが気持ちがいい、と考えていた」
結局風邪をひいてしまい、母から叱られたが、それでも意地になって買わなかった。ところがある日、会社の上司が向田さんを残業させる。五目そばを2人分取り、すすりながらこう忠告した。
「君のいまやっていることは、ひょっとしたら手袋だけの問題ではないかも知れないねえ」
ハッとした向田さんは、気持ちに納得ゆくまでと、久我山の自宅まで15㎞を歩いて帰ろうとした。
彼女は書く。「ぜいたくで虚栄心が強い子供でした。――爪をかむ癖と高のぞみは、はたちを過ぎても直らず」。
若く健康で、暮らしに事欠くこともないのに、「私は何をしたいのか。私は何に向いているのか。――ただ漠然と、今のままではいやだ、何かしっくりしない、と身に過ぎる見果てぬ夢と、爪先立ちしてもなお手のとどかない現実に腹を立てていた」。
ここまでなら、青年時代にありがちな自己愛との葛藤・格闘エピソードと片づけられる。向田邦子のすごいのは、ここからだった。本気で反省し、やり直すのは今とわかったうえで、彼女の出した結論は違った。
「このままゆこう」――高のぞみのイヤな性格ととことん付き合おう。その場しのぎのお手軽な反省で同じ過ちを繰り返すぐらいなら反省なんかしない。
結局5、6㎞ほど歩いて渋谷で電車に乗った向田さんは、翌日から映画雑誌編集員の仕事に応募し、欲しかった米国製の黒いエラスチック水着のために3か月分の給料をつぎ込んだ。その後、週刊誌のルポライターからテレビドラマ放送作家となり、以後は周知の道を歩んでいった。

頑固、気丈、奔放。そうした一面を向田邦子という女性は持っていた。かたや周囲への多彩な関心、驚異的な観察力で”世間をつかむ”能力に長けていた。おそらくそれらは両親から受け継いだ気質と、昭和4年東京に生まれ、父の仕事で全国を転々とした生い立ちがなせる業だったのだろう。
エッセイの最後に彼女はこう書いた。「たったひとつの私の財産といえるのは、いまだに「手袋をさがしている」ということなのです。」