土砂降りの雨、雨、雨に祟られた八月。夏の甲子園野球も史上初めて、台風による2日順延の開幕となった。熱闘の末、全国約四千校の頂点に立ったのは大阪桐蔭高。第96回の大深紅旗を手にした。いま僕は思い出す。かつて、球児たちの一挙手一投足を見つめ、『甲子園の詩』にした人物がいたことを。作詞家・作家の阿久悠(あく・ゆう)氏である。

「また逢う日まで」(昭和46年)「北の宿から」(51年)「勝手にしやがれ」(52年)「UFO」(53年)「雨の慕情」(55年)。――こうして阿久さん作詞の日本レコード大賞5曲を並べると、あのころの”時代のにおい”が立ち昇ってくる。西暦でいえば1970年代の10年間。高度経済成長を経て一億総中流と言われたころの、日本。当時青春を謳歌した年代にしてみれば、こうした歌謡曲のラインアップは、時の記憶を共有するための大きな道具立てのひとつだ。
昭和12年生まれの阿久さんにとって、野球・歌謡曲・映画は「戦後民主主義の三種の神器」だった。あの8月15日をさかいに、鬼畜米英はギヴミーチョコレートに取って変わった。教科書には墨を塗ればいい。絶対的に正しいことなどこの世にはないことを、肌身に沁(し)みて知っている世代。
彼は同年生まれのスターである美空ひばりを常に意識し、時代に半歩先んじた空気を稀代の嗅覚でかぎ分け、昭和の音楽界で文字通り「モンスター」として君臨した。5000曲といわれる作詞数。いちいち書き留めると、このコラムが終わらなくなってしまう。

阿久さんは昭和54年から平成15年まで四半世紀ものあいだ、夏の甲子園野球大会全試合をテレビ観戦(スコアブックを自らつけて)、その讃歌(オマージュ)としての詩(うた)をスポーツ紙に連載した。病を得て1年休載し、平成17,18年は準決勝・決勝を見届けた。最後はマー君の駒大苫小牧と、ハンカチ王子の早実戦で筆を擱(お)いた。
残された363篇の中に、「雨と甲子園」という題の詩がある。[平成10年8月7日一回戦 専大北上 6 x 6 如水館(7回裏2死 降雨コールド再試合)]
   雨は 目に見える / 運命の女神だ <中略> 自然という舞台装置家は / なんという技術を駆使するものか /  のどかな陽の射す甲子園を / ほとんど一瞬といっていい素速さで / 暗黒に変え 雨を降らし /  稲妻を走らせ 雷鳴を轟かせ / スタンドに滝を作り /  グランドを海にした <中略> 雨で負けた人がいる / 雨で泣いた人がいる /  しかし きみらには / ふたたびのチャンスがある <以下略> 
解説文で彼はこう書いた。「雨も、風も、不公平である。しかし、公平にするために、雨を遮る設備と、同じ温度に保たれた巨大な容器の中で戦っては、ゲームではあっても、スポーツでなくなる気がするのである 。ましてや、人生と重ねるなどということもなくなってしまう。」

奇しくもきょう、”もうひとつの甲子園”といわれる第59回全国高校軟式野球選手権大会準決勝で、中京高と崇徳高が延長50回(再試合4日目)を闘い、中京高が3-0で決勝進出、見事優勝した。平成19年に泉下の人となった阿久さんがこの歴史に残る勝負を観ていたら、どんな詩を書いただろう。