1985年8月12日午後6時56分、日本航空(JAL)羽田発大阪行123便は、群馬県・上野村の御巣鷹の尾根に墜落した。乗客乗員520人が死亡する単独飛行機事故史上最悪の惨事となった――

その夜、盆休みで帰省した僕は何気なくテレビを見ていた。午後7時何分かまでは覚えていない。速報テロップが流れた。「ジャンボ機がレーダーから消えた」。すわっ、一大事!新幹線で東京に取って返すと、翌早朝に群馬に向かった。
東京社会部新米記者として命じられたのが、藤岡市の病院待機。生存者到着の情報が入ったからだ。奇跡的に助かった女性4人のうち、吉崎博子(当時34歳)美紀子(同8歳)さん親子が担架で運ばれてきた。
以来、吉崎母娘の担当となった。当初は、練馬の実家に各社押しかけた。1年後の8月12日、居間まで上がり込んでインタビュー記事を載せたのは、ウチ(中日新聞社)だけだった。その時のことを今もありありと思い出す。
あごの傷あとがなければ、どこにでもいそうな親子と祖母が、ごろ寝でくつろぐ。テレビCMで「亭主元気で留守がいい」というのを聞いた美紀ちゃんが博子さんを見上げていった。「ママ、ひどいね」。美紀ちゃんはあの事故で父と兄妹を亡くしているのだ。
そして、祖母の言葉。「マスコミは節目、節目っていうけどさぁ、悲しみに節目はないじゃんねぇ」。

PTSDという精神疾患がある。Post  Traumatic  Stress  Disorder の略。心的外傷後ストレス障害と訳される。
天災や事故、犯罪など命に関わる恐怖にさらされ、心身の統一が保てなくなり、フラッシュバック(当時の記憶の想起でパニックになる)などの症状が表れる。
ポイントは、誰もがかかりうる疾患であることだ。特効薬的な治療法はないが、有効とされる技法に認知行動療法やEMDR(リズミカルな眼球運動などを利用し、つらい記憶を非侵襲的な性質に変える心理療法の一種)がある。
吉崎母娘が東京に搬送され入院しているとき、震度5の地震が起きた。病室の窓から見える東京タワーが揺れた。あの日のことを思い出し、恐怖に震えた。ジャンボ機の垂直尾翼が吹き飛んだのが18時24分。墜落までのダッチロールの32分間が、地震で甦った――

一宮むすび心療内科には、PTSDの患者さんが何人も受診してこられる。ある40歳の男性は、幼少時親に捨てられ、阪神大震災で罹災し、その後働いたビル建設現場の5階足場から転落し、途中で引っかかって一命を取り留めた。僕が初診で見たときは、自分の名前が言えない全健忘状態だった。今は、ひとりで何とか生活している。
こころの傷、とひとくちにいう。現実は、なま易しいものではない。しかし、希望はある。インタビューの日、吉崎美紀子ちゃんは事故後始めた一輪車で5,6回漕げるようになったと教えてくれた。37歳になった今、何回まで上達しただろうか?