杏と桜桃

19日は桜桃忌。太宰治の「命日」であり、生誕の日。東京・三鷹の禅林寺に墓がある。僕は記者時代の昭和62年、この日を境にある女性と関わることになった。今日はその小堀杏奴(こぼり・あんぬ)さんを偲び、ここに記してみたい。

東京を知らぬ者にとっては思いもよらぬほど、三鷹は緑豊かで、田畑が広がっていた。――駅から南に10分ほど歩くと、なんの変哲もない禅寺[黄檗(おうばく)宗]に行き着く。太宰の墓がなければ、一般人は素通りするだろう。桜桃忌の取材を命じられた僕は「太宰ならある程度読んでいる。仕事はスイスイだ」と思いながら、式に臨んだ。もう詳細は記憶の彼方だが、終了後、直会(なおらい)のような形で参会者が談笑するなかに杏奴さんはいた。森鴎外の娘である小堀杏奴の署名を名簿に見つけたとき、不勉強にもその理由がわからなかったが、あの眼光鋭く、威厳に満ちた鴎外の面影を残す杏奴さんは、すぐに分かった。「東京新聞の小出です」。それが彼女との付き合いの始まりだった。
当時、杏奴さんは78歳。顔のしわは深いが年寄じみた雰囲気はなく、白髪をきちんと束ねて凛とした風格が漂う。聞けば、桜桃忌にはずっと参加しているのだという。それまで僕は、太宰が近くの玉川上水で心中したのは知っていたものの、尊敬する鴎外の隣に墓を立ててほしいと、太宰が生前願っていたことは初耳だった。つまり、自身随筆家の杏奴さんは、太宰作品のファンであるのはもちろんのこと、敬愛する父・鴎外を慕う太宰を慕うという二重構造になっていたのだ。
毎年桜桃忌になると杏奴さんは、白いバラを花屋に注文する。それも一本一本とげをすべて取り払ってもらうのだ。それを太宰の墓に手向ける。真っ赤に熟れたサクランボとの対比が色鮮やかだ。無邪気な太宰ファンは、太宰の斜め前にある鴎外の墓を踏み台にして記念写真を撮っている。鴎外の墓石には遺言通り「森林太郎墓」以外何も彫られていないせいだ。その光景を杏奴さんは微笑ましく見ている。彼女らの純な気持ちがわかるからだという。そのことを東京新聞社会面コラム「微風」に載せた。

杏奴さんとは、その後もときどき連絡を取り合い、そのうち年賀状だけのやりとりになって、僕が医者を目指すことになった。反対されるだろうか、とも思いながら久しぶりに電話すると、いつものよく通るしわがれ声で医学部合格を祝福してくれた。そればかりか、新宿のデパートでお昼をご馳走になり、お祝いにネクタイとチョコレートをもらった。ひたすら、うれしかったが、杏奴さんのご主人で画家の小堀四郎さんが僕の高校の大先輩であったことも関係しているのかもしれない。いま心に残るのは彼女が桜桃忌で寄稿していたという「本質について」である。残念ながら、僕はその文章をしっかり読んだことがない。その文章をご存知の関係者がこの拙文を読んでくださったら、クリニックにご一報いただけると幸いである。
森林太郎の二女、小堀杏奴は平成10年4月2日、88歳の生涯を閉じた。合掌。

しのぶれど 色に出でにけり わがこころ

父の日のきょう、サッカー・ワールドシリーズで全日本代表チームが初戦に臨んだ。結果は残念だったが、地球の裏側から送られる画面からは、冬に向かう季節、雨の下で闘う選手たちの生の表情が伝わってきた。同時に強く脳裏に焼きついたのが、緑色グランドに映える日本とコートジボワールのユニフォーム色「青とオレンジ」。
インターネットで調べると、全日本代表の正式な愛称はザックジャパンではなく、「SAMURAI BLUE」らしい。ちなみにプロ野球全日本選抜の愛称は「SAMURAI JAPAN」。つくづく日本人は侍が好きなのだと感じ入るが、理想の父親像論は星一徹とからめて後日書くこととし、本日の話題は「色」である。

先日、愛知県美術館の「シャガール展」を観に行った。シャガールといえば、”色彩の魔術師”などと形容されるように、絢爛(けんらん)かつ神秘的に原色を組み合わせる独特の色使いが心に残る。今回は特に、パリのオペラ座に描かれた天井画下絵の展示が白眉だった。直径15mの円形キャンバスは5つの色彩領域(青・緑・白・赤・黄)に分けられ、シャガールの選んだオペラやバレエなどの主題がそれぞれ描かれている。たとえば、青はムソルグスキー歌劇とモーツァルト「魔笛」といった具合だ。エッフェル塔は「サムライブルー」と同じ青で描かれ、その背景はゴッホを彷彿(ほうふつ)とさせる渦巻タッチの赤でバレエ「火の鳥」を表現している。

色について少し医学的説明をしたい。霊長類としてのヒトは外界の情報収集器官として視覚系を極度に発達させた。五感のうち視覚による情報量は9割以上といわれる。ものを視るとき、視覚情報は眼球の後面内側に張り付いている網膜から視神経を通って、大脳の後頭部に送られる。その後、ものの①かたち②色の要素に分けられ、③動き(時間)の要素とあわせ、脳の別々の場所で処理される。最後に前頭部の記憶とすり合わせが行われ、ヒトの意識に「見えた」という感覚が生じるのだ。ややこしいが、要はひとの認識に色と形は絶大な影響を及ぼしているということだ。色によってなぜか特有の感情が誘発されやすいのも面白い。人種性別などによらず、赤は情熱、青は冷静、というように。夜間、窃盗や痴漢の続く地域の街灯を青色に変えたら犯罪発生率が減ったという研究もある。

色について書き出すと、いろいろ思い浮かんできて、収拾がつかなくなりそうになる。そこが色の色たるゆえんかもしれない。「色即是空」の世界に到達するにはまだ未熟すぎると自覚はするものの、色めき立つことなく、毎日を過ごしていきたい。まずは、サムライブルーの次の試合を楽しみに待とうか。







”竹”から受け継ぐ「一騎ワールド」

梅雨入りし、じめじめとした季節が到来した。梅の実の熟す時季。今日で一宮むすび心療内科開業2ヶ月である。この間、前任地の上林記念病院から移ってきてくれた患者さん、あらたにクリニックの門を叩いてくれた患者さんのことを、思う。初診の方にはお待たせするときもあったが、この先のお付き合いで少しでも良くなってくださるよう工夫していきたい。今回のコラムだが、最近「10年河清を待つ」「天命を待つ」など、待つ話題が多かった。待つ=松→梅(雨)とくれば、次はあいだの”竹”の話だろう。(いつにも増して強引な導入だが、乞御容赦)。

で、竹内聡先生のことである。名古屋でクリニックを開いておられ、愚輩が信頼できる医師のひとり。星ヶ丘マタニティ病院時代は心療内科の先達として教えを乞い、同院の産婦人科・小児科の諸先輩とともに、女性の心身症治療に励んだ。ドラえもんのようなお腹の妊婦さんの隣室で、骨皮筋エモンの摂食障害の女の子を診ていたのは、はた目には綱渡りゲームに見えただろう。しかし、自画自賛を承知で言えば、当人やご家族に安心してもらえる医療を提供できたのは、心理士含めスタッフの努力と、あの病院の懐の深さゆえだったと思う。だから県内の大学病院や総合病院から、お手上げの患者さんが次々と定期的に紹介され、引き受けていたのだ。現在は金子宏先生が心療内科を引き継いで活躍しておられる。
その竹ちゃんマンこと竹内先生が開業してかれこれ10年になる。現在は、達観した修道僧(顔立ちはやや童顔)のごとく、心身相関を基盤とした心身医療の正道を歩んでいるように見える。心身相関とは、心と体は脳というハードウェアを介して密接につながっており、その多面的・総合的アプローチなしには「なおる」ことは難しいという考え方である。心身医学は英語でbio-psycho-social  medicineと表現する。当然、僕もそれに沿って、日々の治療を進めている。将来的には、脳波を定量測定して患者さんの病態をとらえ治療するニューロフィードバックなども取り入れられたらと考えている。

竹内先生はホームページのなかで、「人生に必要なことはすべて梶原一騎から学んだ」というコラムを書いていた。「いた」という過去形なのは、残念ながら最近は更新がなされていないためだ。何を隠そう、梶原一騎にかけては、こちらも負けず劣らない”一家言”をもつ。おそらく、これには世代的な影響が大きくかかわっていようが、近い年代でも「あのスポ根はねえ、、」的な発言をなさる御仁もあるから、当人たちの気質も関係しているのだろう。
というわけで、今後、毎回ではないが、折りに触れて、「むすび院長の一騎ワールド」を展開していく予定である。乞ご期待。
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