あれから半世紀。この日には僕自身、特別な思い入れがある。
三つ子の魂百まで。一番若いころの記憶を問われると、必ず「東京オリンピック」と答える。しかし、実際にテレビで見た記憶なのか、その後のニュース映像で見た記憶が混じり、すり替わっているのかはわからない。いずれにせよ、僕の脳裏には次のような光景が残像として在る。
――白黒テレビでは漆黒に映ったエチオピアの聖者ランナー、アベベが42.195㎞のテープを切った後、国立競技場のトラックで柔軟体操をする様子。鬼の大松監督が率い、東洋の魔女と称えられた日本女子バレー軍団が、ソ連チームのタッチネットで金メダルを勝ち取った瞬間(視聴率66.8%)。重量上げで筋骨隆々の三宅義信が、ぶるぶる震えながら金メダルのバーベルを持ち上げた時の背筋のそり具合――
開会式での日本選手団の鮮やかな紅白ユニフォーム姿は色つきの記憶なので、後年の特集映像の影響だ。東京の次のメキシコ五輪のころ、「どうして野球はオリンピックにないんだろう」と思いながら、父とキャッチボールをした記憶も湧き出てくる。
無邪気な小学生時代過ぎし後、中学1年の担任となったのが長谷川金明先生だった。クラスの誰もが本名の「かねあき」ではなく、「きんめい」のニックネームで呼んだ。体育が専門で、当時の教師のご多分に漏れず、”鉄拳制裁”もときにあったが、別の体育教師のようにゲンコツではなく、平手ビンタだった。
何より、つねに生徒を笑わせ、和ませる雰囲気を醸し出していた。道徳の時間、近くの公園にクラス皆で遊びに出たり、体育の時間に雨が降ると授業そこのけで、教壇で手拭いをかぶり、安来節を唄いながらドジョウすくいを踊って見せた。
僕が中3に進んだ春、きんめい先生が病気で休んだ。大腸癌だった。そして、体育の日の直前に死んだ。まだ27歳だった。
先生が休む前、「こうするとハライタが治る」と言って体育館で逆立ちしていた姿を思い出した。葬儀には、地元が同じで一学年下のラジオパーソナリティ、つボイノリオ氏も参列した。あの日の空の青さは、きっと東京オリンピックのときに匹敵する秋の青だった。
後日談がある。きんめい先生には年子の妹さんがいる。つボイ氏の同級生。彼女から聞いた話だ。
今伊勢中のバスケ部で、坪井後輩を鍛えた先生は、一宮高では陸上部に入った。専門は中距離。その秋、つまり東京オリンピックの年に、先生は聖火ランナーとして、一宮市内を走った。
だから、体育の日は10月10日でなければならないのだ。