医学部生が最初に学ぶ基礎医学の分野に組織学がある。社会に組織があるように、生物は無数の組織で出来ている。そのおおもととなるのが細胞(Cell)である。ヒトには約60兆個の細胞があるとされる。英語(セル)の語源は「仕切られた部屋」という意味。細胞の内と外を隔てる「壁」が細胞壁だ。動物の細胞では、壁ではなく「膜」と呼ぶ。
体の場合、壁や膜があるおかげで形が保たれ、生命維持活動が成り立つ。その際重要なのが、生体膜は単なる仕切りではなく、内と外との仲介役(メッセンジャー)を果たすことだ。
生物を定義せよと言われたら、読者の皆さんはどう答えるだろうか?
意外と難しい質問だが、膜に仕切られた細胞(一個のみの場合が単細胞生物)をもち、代謝活動を行い、自身の遺伝情報を後の世代に引き継ぐなどが答えの例だろう。
膜を電子顕微鏡レベルに何万倍にも拡大して見ると、あちこちに”穴”が開いているのがわかる。そこにはいわば”関所”が存在し、細胞の内外の物質・エネルギーの出入りをチェック、コントロールしている。
では心の場合、膜に相当するモノは何か?
それが「自我」だ。生まれて間もなくの赤ちゃんには、自我はまだ出来上がっていない。自分の周りにあるものを舐めたり、触ったり、匂いをかいだりするうちに、身体的境界がひとの脳内に出来上がる。それにつれて、あるいは遅れて、自己と他者との心理的境界も形成されていく。一番重要なのが母子関係であることは言を俟(ま)たない。それに必要な時間がおよそ3年。「三つ子の魂百まで」とはこのことを指したことわざだし、一番古い記憶が3歳以前に遡ることがないのも、それと深く関わっている。
人間社会のレベルでは、壁は自由を妨げるものの象徴だ。村上さんは先のスピーチでこう言った。
「壁は私たちを守ることもあるが、そのためには他者を排除しなければならない。やがて時には暴力を伴い、ほかの仕組みの論理を受け入れない固定化したシステムとなる。世界には民族、宗教、不寛容といった多くの壁がある。しかし、ジョン・レノンが歌ったように、誰もが想像する力を持っている。壁に取り囲まれていても壁のない世界について語ることはできる。それが大切で不可欠な何かが始まる出発点になるかもしれない」。
彼のデビュー作「風の歌を聴け」(1979)の出だしは僕の頭から離れない。
「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」。
わたしたちの内なる壁。それとの格闘は果てしなく続く。それが、生物の定義かもしれない。