壁との格闘

冷戦終結の象徴となったベルリンの壁崩壊からきょうで25年。Google検索でも、ブランデンブルク門上で歓喜に湧くドイツ民衆の姿が映し出されている。奇しくもそのベルリンで、地元紙制定の文学賞が村上春樹氏に贈られた。村上さんは5年前にエルサレム賞を受賞したとき、人間を”卵”に、人間を傷つけ殺すシステムを”壁”に譬(たと)えて「私は常に卵の側に立つ」とスピーチした。彼は今回も「壁は小説家としての私にとってずっと重要なモチーフだった」と語った。

医学部生が最初に学ぶ基礎医学の分野に組織学がある。社会に組織があるように、生物は無数の組織で出来ている。そのおおもととなるのが細胞(Cell)である。ヒトには約60兆個の細胞があるとされる。英語(セル)の語源は「仕切られた部屋」という意味。細胞の内と外を隔てる「壁」が細胞壁だ。動物の細胞では、壁ではなく「膜」と呼ぶ。
体の場合、壁や膜があるおかげで形が保たれ、生命維持活動が成り立つ。その際重要なのが、生体膜は単なる仕切りではなく、内と外との仲介役(メッセンジャー)を果たすことだ。
生物を定義せよと言われたら、読者の皆さんはどう答えるだろうか?
意外と難しい質問だが、膜に仕切られた細胞(一個のみの場合が単細胞生物)をもち、代謝活動を行い、自身の遺伝情報を後の世代に引き継ぐなどが答えの例だろう。
膜を電子顕微鏡レベルに何万倍にも拡大して見ると、あちこちに”穴”が開いているのがわかる。そこにはいわば”関所”が存在し、細胞の内外の物質・エネルギーの出入りをチェック、コントロールしている。
では心の場合、膜に相当するモノは何か?
それが「自我」だ。生まれて間もなくの赤ちゃんには、自我はまだ出来上がっていない。自分の周りにあるものを舐めたり、触ったり、匂いをかいだりするうちに、身体的境界がひとの脳内に出来上がる。それにつれて、あるいは遅れて、自己と他者との心理的境界も形成されていく。一番重要なのが母子関係であることは言を俟(ま)たない。それに必要な時間がおよそ3年。「三つ子の魂百まで」とはこのことを指したことわざだし、一番古い記憶が3歳以前に遡ることがないのも、それと深く関わっている。

人間社会のレベルでは、壁は自由を妨げるものの象徴だ。村上さんは先のスピーチでこう言った。
「壁は私たちを守ることもあるが、そのためには他者を排除しなければならない。やがて時には暴力を伴い、ほかの仕組みの論理を受け入れない固定化したシステムとなる。世界には民族、宗教、不寛容といった多くの壁がある。しかし、ジョン・レノンが歌ったように、誰もが想像する力を持っている。壁に取り囲まれていても壁のない世界について語ることはできる。それが大切で不可欠な何かが始まる出発点になるかもしれない」。
彼のデビュー作「風の歌を聴け」(1979)の出だしは僕の頭から離れない。
「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」。

わたしたちの内なる壁。それとの格闘は果てしなく続く。それが、生物の定義かもしれない。

ケガレを除く音楽療法

3日は文化の日。日本国憲法公布(明治天皇誕生日)が由来。気象学的には晴れの特異日として知られる。毎年、文化勲章親授式とともに各種褒章伝達式が執り行われるが、今年は歌手の桑田佳祐さんらが紫綬褒章を受章した。

サザンオールスターズのデビュー曲(36年前)はよく覚えている。沢田研二の「勝手にしやがれ」とピンクレディーの「渚のシンドバッド」をただ繋いだ曲名。平成のラップ音楽なき時代の、語尾巻き舌C調言葉のノリ。「いま何時!そーね、だいたいね」は今も耳に残る。
以来、ポップミュージックの表街道をひた走ってきた。そのリーダーが国からご褒美の章をもらう時代。「ずっと目立ちたい一心で、下劣極まりない音楽をやり続けてきた」と自嘲するのも彼らしい。その一方「大衆芸能を導いて来られた数多(あまた)の偉大なる先達たちのおかげ」と感謝の言葉を忘れない。食道がんから復活したせいもあるのだろう。(個人対象なのでやむを得ないが、できればサザン全員に受章してもらいたかった)。

芸術の秋に音楽関係者受章の報を聞いて感じるのが、精神疾患治療としての音楽療法だ。これは「音楽の持つ生理的・心理的・社会的働きを用いて、心身の障害の回復、機能の維持改善、生活の質の向上、行動の変容などに向けて、音楽を意図的、計画的に使用すること」(日本音楽療法学会の定義)。
僕流にアレンジすると、「耳を通した非言語的心身療法」となる。音楽療法も言葉は使うのだが、言葉の意味を知らずとも成立するのがこのセラピーの特徴だ。だから、脳卒中で言葉が出ない人にも、いやだからこそ音楽が有効となりうる。亡くなった田中角栄元首相は脳梗塞で右半身不随となり、言葉も出なかったが、リハビリで黒田節を歌う練習を続けた。
ただし、音楽療法はいまだ滲透しているとは言い難い。同学会のカリキュラムでセラピストへの道は開けるのだが、国家資格ではないし、療法自体が保険診療の対象になっていない。

最近出た医師向けのリーフレットで音楽療法の特集を組んでいた。そこには音楽療法の専門家でもある精神科医、阪上正巳・大谷正人両氏の対談記事が載っていて興味深く読んだ。おふたりによると、40年間統合失調症の患者さんと音楽セッションを続けてきた作曲家・チェロ奏者の丹野修一さんは次のやり方で成果を挙げている。
ひとりの患者さんが1音か2音を繰り返し奏でるだけのシンプルなもので、それを合奏すると「芸術的音楽空間」が現れるという。患者さんは音楽の歓びを体験し、他者の音に合わせる認知トレーニングにもなるとのことだ。
大谷先生は広汎性発達障害など障害児への特別支援の場で「調性のある音楽」を導入すると効果が高いと訴える。
実は当院に通う患者さんの中にも音楽療法士の女性がいる。彼女は日々、自閉の子や認知症のお年寄りにセラピーを行っている。ぜひ続けてほしいものだ。

このリーフレットに寄稿した精神科医、松波克文氏は、患者さんが音楽を楽しむようになると病気が快復に向かうことが多いと書く。僕は治療としての音楽療法を支えるのが、”歌”そのものと思う。
日常生活のあちこちに潜む心の病の傷口を日々癒すのが歌ではないか?(くちびるに歌を、こころに太陽を)。日常のことを、ハレ(晴れ)に対して、ケ(褻)という。そのエネルギーが枯渇した状態がケガレ(穢れ)だ。ケを回復するのに有効な方法が歌であり、音楽なのだろう。
文化の日というハレの日に、ケガレなき日常を取り戻してくれるサザン・桑田が受章。オメデトウ!ケースケ先輩、これからも歌いつづけてチョースケ。


Karoshi を防げ

今月から極めて重要な法律が施行された。「過労死等防止対策推進法」(過労死防止法)。過労死は「Karoshi」としてオックスフォード英語辞典にも載るほどの、世界にとどろく不名誉な言葉だ。その内実は心療内科臨床に携わる身には痛いほど理解できる。本日はその一端をお伝えしよう。

かつて労災といえば、炭鉱での落盤に代表されるように、事故が大半を占める時代があった。それが高度経済成長を経て、成人病(=現在の生活習慣病)に比重が移り、いまやメンタルヘルス関連疾患が”猛威”を振るっている。たとえば脳・心臓疾患を原因とする過労死は、1999年と2012年を比べると、493件から842件まで増加。いっぽう同じ期間で、精神障害などを原因とする過労自殺は155件から1257件へと跳ね上がった。毎年3万人近い自殺者の内訳は働き盛りの男性が多く、その影響は家族も巻き込んで計り知れない。

Aさんは42歳の男性。ある中堅食品会社の人事担当。課長補佐という立場は微妙で、こまごまとした事務作業をこなすのはもちろん、上司の指示を適宜判断し、サポートしなければならない。最近は入社1年目で辞める社員が増え、人員補充が思うに任せず、情報収集に翻弄された結果、この夏の残業は3か月続けて90時間を超えた。
労働安全衛生法では時間外労働が100時間を超えた場合、医師との面談が義務付けられている。Aさんの会社にはメンタル担当産業医がおらず、疲れ果てた顔つきで一宮むすび心療内科を訪れた。
僕の診断は「反応性うつ病」。まず1カ月休むことを勧めたが、とてもそんな勤務状況ではないとAさんは受け入れなかった。やむを得ない。抗うつ薬、睡眠導入剤の処方とともに、こんな診断書を書いた。
「上記疾患のため病状悪化、当分の間、時間外就労は不可とします、、、」。診断書に拘束力はないと言えばないが、もし患者さんが過労で倒れた場合、訴訟も考えられる。そのさいに診断書は裁判で証拠採用される。
昨今は就業規則もなければ、サービス残業は当たり前、上司からのパワハラに悩んで受診といったケースも増えてきた。”ブラック企業”というやつだが、ただ「黒」とレッテルを張るだけでは埒が明かない。
さいわいAさんの場合は会社側が配慮してくれ、しばらくして、Aさんは夜間何回も目覚めることがなくなった。表情にも生気が出てきて、休職せずに勤務を続けている。

過労死防止法の眼目は、過労死・過労自殺を防ぐことを国の責務と明確化した点にある。インターネットニュースで「ウサギ小屋に住む日本人がまたKaroshi」などと報道されないためにも、この法のもつ意味は大きい。

各地で木枯らしが吹き、日本列島は冬支度に入る。労働者の心にすきま風が入り込むのを少しでも防ぐのがわれらの仕事と心得ながら、タンス奥のコートを取り出した。

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