10年河清を待つ

今週の診察である女性患者さんが、実質的に終診となった。少し、振り返ってみようと思う。(例により個人が特定されないように事実を修飾している)

一ツ家直瑠さん(仮名)は昭和49年生まれの初診時30歳。小出のもとを訪れたのは、豊田の病院勤めの時だった。身長160㎝、体重38㎏の車いす受診。主訴は「何もできない。生きている価値がない」。完全なうつ状態で、頬はこけ、まず身体的対応が必要な状態と思われたが、それまで三河地方の主だった総合病院を軒並み受診し、検査で「異常なし」といわれ、小出の信頼するT先生(心療内科クリニック)のもとに辿りつき、入院対応も含めこちらに紹介されたのだった。
一ツ家さんは高校教師の父とパート主婦の母、父方祖母、6歳離れた兄の5人家族。兄は厳格な父と対立し、家を出て東京で芸能活動を続ける。うちでは母と祖母の微妙な関係の中で、病気がちだった一ツ家さんはやはり芸術系大学に入ったが、中退。ある百貨店に就職したものの、「接客中にお客様の視線が気になり、電車も乗れなく」なった。1年間勤めた後、風邪で休んだのを機に出勤できなくなり、退職。自室に引きこもり、心身ともに悪循環に入っていった様子だった。一番つらかったのは、市民病院の医師に「どうして、(このデータなのに)歩けないの?」と訊かれたことだった。
T先生は発達障害も考えたようだが(女性の内向タイプでときどき見かける)、心理士とタッグで治療に当たり、心理検査ではその兆候は見られなかった。幼少時に虐待されると、発達障害と同様症状を示すこともあるが、その事実はつかめず、一ツ家さんは父のことを「尊敬できる人」とこたえた。その一方で家での生活は「寂しい」とも。時間がかかることを伝えた。同時に、必ず「直る」ことも忘れず付け加えた。
4か月の入院で体重が戻ったのに合わせ、時折笑顔が見られるようになったが、まだ小出の冗談には、笑顔をかえす余裕はなかった。変わり始めたのは、結婚をし、家を出てしばらくしてからと覚えている。実家との関係は決して派手な問題があるようには見えなかったが、彼女の中で、凍っていた心の中心が少しずつ溶けだしたように見えた。小出がいくつもの病院を転勤しても、一ツ家さんは律儀についてきてくれた。そして、薬を徐々にへらし、最近はアルバイトにも自転車で出かけるように回復。抗うつ薬を含め、ついに何を飲まずとも普通に暮らせるようになっていた。気づいたら10年がたっていた。
”最後”の診察で、なにが回復によかったか訊くと、「わからないけど、まわりが理解してくれて、待っていてくれたこと。先生にずっとついてきたこと」と答えてくれた。

精神科・心療内科の治療では、正直完治は難しいことが多い。だが、百年河清を待つつもりでいて、こういった僥倖に出会うこともある。そう、まさしく思いがけない幸いである。そのことにただ感謝することができる日があるので、この仕事はやめられない。

五月晴れ 彼と母とは 晴れもせず

今日は母の日。アメリカの南北戦争に反対した女性教師をしのび、5月第2日曜と制定されて今年で100年。日本でも戦後それにならい、カーネーションなどを贈るようになったようだ。今回は「母と5月」をお題に考えてみる。

マザーコンプレックス(マザコン)という言葉自体は有名でも、その意味するところは、なかなか難しい。また、大型連休後に新入社員や新入生がやる気をなくし、出勤、出席できなくなる”五月病”も指摘されてずいぶん経つが、これも医学用語ではない。どちらも広辞苑やウィキペディアでは捉えきれないのだが、ある実例を出してみたい(プライバシィ保護のため事実を変え、本質は残すように努めた)。
 20代の独身男性・今奈門太郎君(仮名)。中学卒業後地元進学校にすすんだものの、部活の人間関係や勉強に悩み、中退。大検の資格を取り、親の縁故である商社に就職したが、入ってわずか2か月で仕事に疑問を持った。自分のやりたい事と違う、などと。なんとか1年もったが、2年目の5月連休明けから出勤拒否に至り、困った母親に連れられて心療内科受診。話をしても、下を向き、ぼそぼそ。抑うつのアンケートの点数は高いが、自殺念慮はない。ノートを使った認知療法と少量の抗うつ薬で治療を始めたが、数回で受診は途切れがちになり、その後は1ヶ月に1回、母が家族受診するようになる。いつも心配そうに「息子は大丈夫でしょうか?」と訊いてくるが、昼夜逆転の生活で夜に何をしているかたずねても、「ゲームをしていると思います」の一点張り。週末は昔の友人とバスケットボールで汗を流す、という。何か月かの母親受診でわかったのは、傷病手当が途切れないように心を配っていることだった、、、。

ひとは、ひとりでに成人するのではない。昔なら通過儀礼という関門があり、共同体という受け皿があった(それには善悪両方あるが、ここでは措く)。核家族化は成長モデルとしての親に過大な役割を負わせすぎる。これは先進国に共通の問題ではあるが、とくに日本の場合は、母性の役割の難しさ、微妙さが欧米とは異なっているように思える。マザコン息子のみが五月病にかかるわけではないにしろ、おそらく、多くの人たちが思い描くのは、そんなイメージとおもわれる。さて、どうしよう。続きは診察室で、なのか、こういう「病気」に心療内科は意味がないのか。――
カーネーション(carnation)の語源は、花弁の肌色(イタリア語)からきているという(研究社新英和中辞典)。そして、それに再び(re)がつくと、転生(reincarnation)となる。母の日に、門太郎君が生まれ変われるかどうか、祈ることにしよう。

菩薩と出会ったこどもの日

半袖ではさぶぼろ(鳥肌)の立つ雨に降られたこどもの日、用事で関西に出掛けました。新幹線から在来線に乗り換えて目にした光景。
――思いのほか車両は空いており、誰も目の前にいない通路をはさんだ対面の座席に母と子3人が座っている。三十がらみの年に見える彼女は、生後数か月の赤ちゃんをおんぶひもで胸元に抱き、両脇にはおそらく就学前と小学2、3年の男の子を従えている。いが栗頭の二男が右側から、クラゲのようにぐにゃりと体を母にあずけると、それに対抗するかのように左から、長男が母親の左手を取り、ぴしゃぴしゃと叩く。なにやら彼女に話しかけているが、聞き取れない。しかし、明らかに母は柔和な、もっといえば慈愛に満ちた表情で子どもたちに接しているのが手に取るように伝わってくる。――やや細目がちな、女優でいえば田中裕子似のその体から後光が差した、と書くと小説(フィクション)になってしまいますが、そう言って差し支えない空気が、がらがらのJR車内を満たしていました。その雰囲気のもとを辿[たど]るとひとつは、彼女が3人の子をつれていたことに行き着きます。「女手ひとつでけなげな、、」といういい方が観察する側に浮かんだのは間違いありません。それはある種の母性神話かもしれませんが、、、。

こどもの数が戦後最低を更新つづけ、まちは年寄りだらけ、という時代に突入しているわが祖国ニッポン。合計特殊出生率(ひとりの女性が一生涯に産むこどもの数)が人口維持に必要な数字を上回ることは期待できず、2人こどもがいれば多い方なわけで、経済の低迷にその原因を求めるのが主流ですが、それは真実とは異なります。一番相関しているのが高学歴化であり、次に娯楽の多様化であって、そのおおもとは未来への期待の乏しさです。”貧乏”が少子化の真の原因なら、貧しい途上国の人口爆発は日本とは全く異なると証明する必要がありますが、「貧乏人の子だくさん」な時期を経験している日本には無理な注文です。

さて10数分の邂逅[かいこう]ののち、母子はこちらと同じ駅で降車しました。そのとき愕[がく]然とした結末に出会います。朝の連続テレビ小説ならここで終わるところですが、実はこの子らには父親(母から見て夫)がいたのです。母の向かって右にいた二男から30センチ離れて座っていた男性が、その人でした。もちろん、こちらの視界には入っていました。けれど彼は道中、ただの一度も家族と会話を交わすことなく、かといって寝入るわけでもなく、ただ無表情に窓外の景色を眺めるのみでした。今思い返してみても、彼をあの母子の家族と感じ取る状況はなかったといえます。では、いったいなぜ?その答えは、5月のつめたい雨にかき消されてしまったようです。
ぶるっ!悪寒がしてきた。風邪、ひいたかな?温かいミルクをのんで寝よう。
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