合いの手の達人

すっかり春めいた日曜、とある精神分析ゼミナールがあり、参加した。医療関係者向けのため、プライバシーに配慮し、事実変更しての報告となるが、本質はぜひ患者さんや関係者に伝えたい内容だったので、コラムに残しておきたい。

K先生は精神医療の泰斗として長く臨床に携わってこられた。著作も多く、精神科医なら必ず知っている著名人。その治療技法は”雑談精神療法”といわれ、診療の対話から癒されていく患者さんも多いと聞く。その名人芸の一端を垣間見たいと思い、会場に足を運んだ。
ゼミナールは定期開催されている勉強会で、別の精神科医が症例を2時間余にわたって発表、それを先生が随時コメントしていく形式だ。
症例は離人症の女性A子さん(19歳)。離人症は幽体離脱とは関係なく、自分が外界と隔絶されたような現実感の喪失を感じる精神医学的症状。現実を吟味する能力までは損なわれないが、その違和感に患者さんが苦悩する。背景に神経症から精神病まで、さまざまな<こころ/脳>の問題が潜んでいる。
医師、心理士らの聴衆を前にして冒頭、K先生が言及したのはA子さんのことではなく、発表するB先生の声質だった。「いいですねえ。全身を使って出している」。つねづね、治療の”三大神器”として歌を挙げているむすび院長としては、わが意を得たりというコメントだった。俳優の石坂浩二さんは、芸能界で生き残るためにボイス・トレーニングを積んで、あの低音を作り出したそうだ。
以前勤めた精神科病院で、「臨床の現場では何を話すかではなく、どう話すかが大事」と先輩医師から教わったことはずっと耳に残っている。日常生活でも、同じ内容の忠告を「あんたからは言われたくないわ!」という場面はきっとあるだろう。
K先生は発表者のほんのちょっとした表現も聞き逃さない。「A子さんは子供のころ厳格な母親から叱られるかと思うと寝るのが怖かった」とB先生が言葉を発するや否や「叱られるのが怖くて寝られなかったのか、叱られると『思う』と、怖くなったのかの違いを確認してください」と注文を付けた。もし後者だとすると、彼女は幼少時既に思考する能力がしっかりあったことになり、現在の病状と齟齬が生じるからだ。B先生は、前者だったと思いますと述べられた。うーん、言葉のプロ。
K先生はこうも言われた。「言語構造は精神構造を反映します」。ナルホド。そのいっぽう面接で沈黙が続いたとき、患者さんの生理的反応にも気を配ることの重要性を語られた。「筋肉の具合で緊張がわかります。とくに口角筋のあたり」。心身医学では心と体の関係をつねに見据える。当然かつ大切な指摘と感じ入った。
そうこうするうちに時間はあっという間に過ぎた。カウンセリングの奥深さ、難しさも改めて感じた半日だった。
ピスタチオをちびちびかじりながらK先生は助言された。(ひょっとすると、豆かじりも道具立てのひとつ?)。その姿は、餅つきで杵を振りかざし奮闘する夫にひょいひょいと手返しをする古女房のような印象を受けた。気がつくといつのまにか餅が搗(つ)き上がっている。これぞ達人のわざ、なのだろう。

そなえよつねに

2月22日はボーイスカウト創始者の英国人ベーデン=パウエル卿(1857-1941)の生誕日。ボーイスカウトは162の国と地域で3600万人が加盟する世界最大の青少年活動。ビル・ゲイツら有名人の経験者も多く、宇宙飛行士の野口聡一さんは今も現役の指導者。かくいう一宮むすび心療内科院長も一宮第3団の元スカウト。本日はボーイスカウトのモットー『そなえよつねに』がテーマ。

退役軍人のロバート・ベーデン=パウエルは今から百年前、自らの体験を基にイギリスの島で少年20人と実験キャンプを行った。野外活動を通じて自然から学ぶことで、自立心や社会性、協調性を育成しようというボーイスカウト運動の始まりだった。
すぐに日本にも伝わり、大正11(1922)年には連盟が発足、現在15万を超えるメンバーが活動している。小学校入学時から年齢層に応じ、ビーバー、カブ、ボーイ、ベンチャー(以前のシニア)、ローバーの各スカウト隊に分かれる。各隊はいくつかの班に分かれ、隊長ら指導者の下、キャンプやハイキング、地域奉仕活動などに従事する。甲子園野球で出場校カードを捧げ持ち、先導行進するスカウトの凛とした姿を思い出す人もいるだろう。
スカウト活動での行動規範が「おきて」だ。小5から中3までの少年が所属するボーイ隊では8つの「おきて」(以前は11)がある。スカウトは<誠実である>に始まり、< >の中の言葉に「礼儀正しい」や「勇敢である」などの約束が掲げられる。隊員は団旗を前にし、右ひじを直角に曲げ三本指を立てた特有の姿勢で「おきて」を暗唱する。その精髄は「ちかい」に記された①体を強くし②心を健やかに③徳を養う――の3点に集約される。そなえよとは、この三つを常に目指せということにほかならない。
その結果、「いつも他の人々を助けます」という奉仕精神が自然と身に着いていく。むすび院長のころはかなり厳しい指導もあったが、以前は別団体だったガールスカウト女子も、現在は同じ隊に所属して行動をともにするなど、時代に合わせて組織も変わってきた。

昨今のわが国を見渡せば、地震に噴火、土砂災害と自然の猛威にさらされる一方、留め金が錆びて落下したビル看板に頭を直撃された札幌の女性に代表されるように、われわれは常に「危険」と隣り合わせで暮らしている。
医療分野でもリスク・マネージメント(危機管理)が普及浸透している。”ヒヤリ・ハット”という言葉に聞き覚えのある方も多いのではないか。これは、1件の重大事故の背後には29件の軽微な事故があり300件のニアミスがあるとするハインリッヒの法則をもとに、できるだけそうしたリスクを減らそうという対策を表したもので、正直なところ日常診療でのヒヤリ・ハットゼロ、という訳にはいかない。
定期的にスタッフ会議を開くなど反省の日々のなか、僕にとっての羅針盤が『そなえよつねに』なのだ。プリンタのインク、トイレットペーパー補充から始まり、患者さんの心と体の変調を素早くキャッチすることまで、この7文字はつねに僕の脳内を駆け巡っている。
ボーイスカウト時代、1級章を保持して班長を務めてから40年近く経つ。いまだに「もやい結び」という絶対ほどけない救助ロープの結び方はこの両手が覚えている。人と人、心と体を結ぶこと。わが人生の終わらぬテーマ。

甘くて痛い話

2月14日はバレンタインデー。歴史的にはチョコレートと全く関係がないそうだが、いまや我が国製菓業界の存続がかかっているので、この際由来はどちらでもよろしい。今日は、チョコを貰って困る症状の出る人のためのお話。

片頭痛(migraine)。片方の頭と書くので、両側とも痛いのは片頭痛でないと思い込んでいる人がいるため伝えておくと、左右ともに痛むタイプの片頭痛は多い。頭痛学会がこの疾病を定義している。ポイントは①拍動性(ドクンドクン脈打つように痛む)②運動や体位変換で痛みが増強する③吐き気や嘔吐、光や音に過敏になる――など。前兆があるタイプとないタイプがあり、女性に多く、家族にも同様症状を持つひとがある。(遺伝病ではない)。
でも、なぜバレンタインデーに片頭痛?と思ったあなた、最後まで読むとわかります。
その前になぜ頭痛は起きるのか?から。
痛みを感じるのは末梢神経線維が通るところ。じつは脳そのものは痛みを感じない。中枢神経である脳細胞自体に痛覚はないのだ。なので、脳腫瘍除去術のとき神経麻痺を避けるため、麻酔から覚めた状態で執刀することがある。
頭部に痛みを感じるのは、大きな腫瘤による圧迫を除けば、脳内血管が刺激された時ぐらい。何らかの機序で血管が拡張すると、そこを通る神経線維が圧迫され、痛み物質が産生される。だから、脈の拍動に合わせてズキズキガンガンするのだ。
で、なぜチョコレートから片頭痛か、だった。
チョコレートやココアの原料はカカオ豆。成分の一部に、チロシンというたんぱく質から産生される「チラミン」が豊富に存在する。このチラミン、うつ病でよく話題に上る神経伝達物質(セロトニンやノルアドレナリン、ドーパミン)とよく似た構造を持っていて、血管収縮と、その反転としての拡張作用がある。その結果チョコやココアを摂りすぎると、頭痛を起こすというわけだ。
ちなみにチラミンを多く含む物質には赤ワイン、熟成チーズ、空豆、無花果(イチジク)などがある。
亜玉割田代さん(24歳)は幼少時から頭痛に悩んできた。バッファリンやイブなどの常用者。生理前になると「またくるのか」と憂鬱になる。最近は天気が悪いだけで起きるようになった。前述の拍動性、体位変換での増悪、嘔吐など典型的な症状で、母娘2代にわたる片頭痛持ちだ。
ひと月に鎮痛剤を10日以上飲むことも多く、薬剤誘発性頭痛も疑われた。つらいが、市販の鎮痛剤を止めてもらい、予防薬をのんでもらった。同時に、チョコ・チーズをつまみにお酒を飲むのを禁じた。痛み発作の初期にトリプタン製剤という高価な薬を投与したところ、以前よりずいぶん改善したという。痛いときには冷やすこと。温めて良くなるのは筋緊張性頭痛のほうだ。

片頭痛は古来、著名人も悩ませてきた。進化論のダーウィンに精神分析のフロイト、ピカソに樋口一葉。一番有名なのは芥川龍之介だろうか。遺作ともいえる『歯車』は、題名自体が片頭痛の前兆(閃輝暗点)を表している。一読をお勧めする。
というわけで、本命チョコのオニイサンや義理チョコのおじさん、友チョコ・自分チョコのオネエサンたちへひとこと。「チョコはちょこっとネ」。
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