ウツるんです#23 戦争を知らない駱駝たち(2020年8月23日

 戦後75年特集で中日新聞がきょう、『戦争を知らない子供たち』の作詞者、きたやまおさむ(北山修)さん(74歳)のインタビュー記事を載せていたので、まっさきに切り抜き保存した。
 私は新聞記者を辞め、精神科医を目指して医学部に入り直した。しばらくして、あの『帰って来たヨッパライ』をうたっていた「きたやまおさむ」が精神分析の大家と知って、がぜん興味がわいたことを思い出した。
 小学生のころ、つまり高度経済成長まっただなか、一番耳に残る曲が『ヨッパライ』だったからだ。 ♪おらは死んじまっただー♪は今でも、疲れた体を湯船に横たえていると、耳元を流れる時がある。
 少し前、精神医学の学会で北山修先生の講演を聴いたことがある。フォークグループで著名になってからの苦悩や、精神分析を学び実践してきた半生を振り返る話に心うたれた。何冊も買い求めた著書の中に自己分析的な自伝『コブのない駱駝(らくだ)/きたやまおさむ「心」の軌跡』〔岩波書店〕がある。
 冒頭、小学校卒業文集に載せた作文を披露。わんぱくでおっちょこちょいの自分、かつ、それを見つめるもう一人の自分という心の構図は今も変わらないと分析する。京都で内科医院を開く家庭に生まれ、父への期待を背負い医師になったが、さみしさまぎれに与えられた電蓄(電気蓄音機)から軽音楽の世界に入り、精神科医とミュージシャンという二足のわらじをはく葛藤の日々が綴られる。
 そのなかでもとくに腑に落ちたのが、「あれか、これか」と二項対立で決めつけるのでなく、「あれとか、これとか」と漂う「イソップのこうもり」的な思考こそがこれからの時代には必要ではないかと語りかけるところだ。
 それを北山先生は、眼が斜位である身体性と関わっているのではと考察する。二つの眼で立体的に1つに視るのが困難で、手術で改善すると、モノの見方も変わったという。おそらく、私自身の中に北山先生の特質と同じものを見出したから、より共感できたのだろうと思う。
 
 著書の最後に紹介されているのが、ヒット作『悲しくてやりきれない』のB面曲『コブのない駱駝』(作曲:加藤和彦)だ。
♪ 昔 アラビアに コブのない駱駝と 鼻の短い象と 立って歩く豚がいました 彼等は自分の醜さを嘆き アラーの神に祈ったのでした、、♪
 そして、こう記す。「駱駝か馬か、象か河馬か、豚か人か。そう選択を迫られるなかで、いや両方なんだと胸を張って堂々とは主張しないけれど、その「分かれ目」にみっともなく立ち続けることがあってもいいと思います」
 インタビューでも同質の意見が述べられていた。「右でも左でもない、めめしさ守る反戦の歌」。令和はコロナをめぐる自粛戦争の時代でもある。まことにタイムリーな記事だった。
 

ウツるんです#22 人生十五番勝負(2020年8月15日)

 終戦から75年。本能寺の変で織田信長は「人生五十年」と謡ったという。遠い戦国時代の話と思いきや、昭和22年の日本人の平均寿命は男50歳(女54歳)だった。それが平成、令和ときて、いまや男81歳・女87歳まで延び、人生百年時代に向かっている。

 嵐山光三郎氏は著書『不良定年』で、人生十五番勝負を提唱した。現役でいられる時間を75年間と定め、15日間で取り組む相撲になぞらえ、5年区切りで十五番星取表を作ろうというもの。そこで、これを機会に自分史を振り返ってみた。
 誕生年は今年と同様、梅雨前線豪雨と第二室戸台風の災害に見舞われた。世界に目を向ければ、ガガーリンが人類初の宇宙飛行を成し遂げ、ベルリンの壁が築かれた年。嵐山さんに従い、初日は生まれたことだけで勝ち(〇)でR。
 次の5年はトタン板で右手を切って七針縫ったり、小学3年で授業ボイコットしたりなど、やんちゃクチャの日々で負け(X)。3日目の十代前半は、勉強とボーイスカウトで文武両道を貫けた手応えから〇。4日目のハイティーン時代は、電車通学の高校生活が充実していたし、大学は「都の西北」で学べたが、失恋の痛手が大きくX。
 とまあ、こんな具合に星取表をつけていったら、12回の結果は6勝6敗。残り3回で勝ち越しを狙いたい〔詳細を知りたい方は個別にご連絡ください。あっ、関心ないですか、そうですか〕。

 ではでは、千秋楽を迎えた“ニッポン君”の勝敗やいかに――これはひとそれぞれで結果が変わってくるだろうと思う。たとえば、初日は敗戦で主権を失いXをつけるひともいれば、いや、戦後民主主義の始まりで〇と主張する方もおられよう。
 主流派を想定すれば、高度経済成長期は〇が多いのだろうか。ならばバブル期は〇で、リーマンショックはXか。うなずく方に問いたい。人はパンのみにて生くるにあらず、とはどういう意味なのか。

 最近立て続けに同級生が亡くなった。今日という日が明日も続くとは限らない。コロナ禍のさなか、そんな当たり前を改めて思い知った。
 この文章を書いている途中にニュースが入った。渡哲也氏死去。テレビでは、大河ドラマで信長役を務めた映像が流れた。「人生五十年」――享年78歳。死因は肺炎という。新型コロナウイルスと関連は? 
 いや、そんなことより、大門刑事の演技や「くちなしの花」を歌う渡さんを思い出しながら、こう尋ねたい。お疲れさまでした。人生場所の帰趨は何勝何敗でしたか?

 
 
 

ウツるんです#21 黒い雨が降った日(2020年8月6日)

 75回目の広島原爆忌。コロナ禍のさなかでの慰霊式。投下時刻の午前8時15分、平和記念公園で黙とうしたのは参列予定の1割に満たぬ八百余人だった。
 被爆者健康手帳を持つ13万6千人の平均年齢は83.31歳。国が援護対象地域外を理由に手帳交付申請を却下したのは違法として処分取り消しを求めた訴訟で、広島地裁は訴えた住民全員を被爆者と認定した。放射性物質を含む「黒い雨」が従来より広範囲に降ったことを認めた画期的な判決だった。
 
 当院にも黒い雨を浴びた男性が受診する。ただし、直接ではなく、母親の胎内で。
 工学系研究者のAさん。2年前に顔面麻痺になり、その後、目の周囲の痙攣が止まらなくなり、受診した。カルテ表紙に「被」と刻印。しかし、被爆当時の話は最初、あえてせず、症状だけに焦点を当てて診察を続けた。メモ片手に、ひとつひとつ事実を確認するように話す。痙攣は簡単には止まらなかったが、ごく少量の薬の工夫と、あとはひたすら話を聴いた。
 
 去年の7月、外来で「もうすぐあの日ですね」と切り出した。努めて淡々と語ってくれたAさんの母の体験を中日新聞生活面のコラム『元記者の心身カルテ』(2019年8月6日付)に書いた。
「、、昭和20(1945)年8月6日、爆心地から2㎞の疎開先。戦地の夫を待ちながら暮らしていた母は、爆風で数m吹き飛ばされた。意識が戻ると、市街で働く自分の妹を捜しに臨月のおなかを抱えて歩いた。地獄を見たという。倒れた人の背中に蛆(うじ)がわいている、、」
 Aさんが生まれたのは終戦月の下旬。予定日より遅かったのが被爆のせいなのか証明はできない。幸い、これまで目立った障害なく、令和時代を迎えた。いや、顔面痙攣は、Aさんの心の澱(おり)のなせる業かもしれない。
「この国は当事者を忘れて経済中心に突っ走ってきた」というAさんにいまのコロナ対策についての思いを尋ねた。
「GoToと感染はどちらがいいとか悪いとかの問題じゃないね。原爆ですら、投下で戦争終結に一役買ったというひとがアメリカにいるしね。でも最近のあちらの若者は否定派が増えてきてる。やっぱり、経験した者とそうでない者との差かね」。どこまでも、冷静沈着な学者だった。だが、その顔面痙攣の下には、はたからは思いもつかない苦悩が隠されている、と感じる。
 『心身カルテ』の最後は、こう締めくくった――「私たちは大きな忘れ物をしたようだ」
 
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