ウツるんです#40「恥ずかしながら…」終戦の日に思う(2021年8月15日)

「堪え難きを耐え、忍び難きを忍び、、」
終戦の日、玉音放送を直接聞き得た戦前派も76歳以上になった。私たち昭和35(1960)年前後生まれの世代は、高度経済成長期に「近ごろの若いもんは、、」と言われ、反発もしたが、大人にかなわないことがひとつあった。
戦争体験。しかし、今振り返ってしみじみ思うのは、まだ、戦争の“残り香”のあったことだった。
街のはずれの原っぱに行けば、銃弾の薬きょうが転がっていることもあったし、夏休み、空襲で焼け残った廃屋で従兄弟と肝試しをしたこともあった。

そんな戦争を知らない子どもたちにとって衝撃的だったのが、昭和47(1972)年、「横井庄一グアム島で発見」のニュースだった。
当時、私は小学5年生。横井さんが帰国した直後からボーイスカウトでサバイバル術を身に着けた。
ハイクでは道なき道を歩き、キャンプではライターなしで火をつけ、野草を調理して食べた。三つのちかいのひとつ目は「神と国とにまことを尽くし、おきてを守ります」だった。〔創始者は英国の退役軍人ベーデン・パウエル卿〕
なので、いちばんの関心事は横井さんがどうやって戦後28年、異国のジャングルでひとり生活し得たかだった。

先日、「横井庄一さん絵本原画とグアム島生活資料」特別展が一宮博物館であり、これを見逃す手はない、と勇んで出かけた。
愛知県生まれの横井さんは幼少時に親が離婚、祖母の家に預けられ、苦労した。旧姓小学校卒業後、豊橋の洋品店に勤務し、20歳で応召、陸軍で4年務めたのち洋服の仕立て屋を開いた。
昭和16(1941)年再召集で満州へ。19年からはグアム島で陸軍伍長として配属され、米軍と戦った。1万9千人の日本兵が命を落とした。生き残った横井さんらは山中に隠れ、カエルや虫を捕まえて飢えをしのいだ。
昭和20年8月15日の終戦の報せはグアムのジャングルまで届かなかった。War is over (戦争は終わった)の米軍の呼びかけは、罠だと思い込んだ。貴重な食料のヤシは、住民に怪しまれないため、一度に全部を採らずに我慢した。最後まで一緒だった同胞2人も死に、ひとりでの生活が続いた。
さいわい、かつての服職人のウデが身を助けた。パゴの樹皮を剥ぎ、水にさらして糸にした。森の木を集めて機織り機を作り、7か月かけて服を一着、織り遂げた。
30年近いジャングル生活の後、魚採りの川で住民に見つかり、捕まった。56歳だった。
札幌オリンピック開幕前日、帰国会見での横井さんの言葉「恥ずかしながら生きながらえて」は後世に残る流行語となった。
帰国後、好奇の目にさらされ人間不信に陥りかけたところを救ったのが、妻になる美保子さんだった。そして、同級で陶芸家の鈴木青々に習い、焼き物に没頭した。

特別展示では、グアム島時代に横井さんが手作りした生活用品が並んでいた。時を感じさせる錆で覆われた鍋や包丁に交じって、晩年に作った陶器が並んでいた。茄子(なす)の花入れだった。その解説文にこうあった。
「親の説教と茄子の花には千に一つの無駄がない」から、好んで作ったと。
いかにも、すべてをひとりで作り出した横井さんらしかった。

日々の診療で、ときどき若い患者さんが嘆息を漏らす。「私はひとりぼっち。ひとりでなんでもしないといけない」。そんな時、私は決まって、横井さんを例に引く。「あなたが着ている服、住む家、食べる物、全部他の人の作ったものだね。あなたはひとりで家にいても、そういった人たちと繋がっているよね。横井庄一さんと違って」。そういって、ピンとくるひとは、もう令和の時代にはいない。
昭和が、ますます遠くなる。







ウツるんです#39 「ひと巡り」して、道なお泡のごとく(2021.7.16)

本日、還暦を迎えた。おそらく、人生のうちで成人と並んで区切りとなるのが60歳だろう。この数字は約数が多く、古代バビロニアで数を数えるのに使われて以来、世界のあちこちで十進法とともに使われてきた。中国の十干十二支が還暦の起源だが、人類共通の数字としてあるのが「60」だ。

7年前の花祭り(灌仏会:釈迦の誕生日)にクリニックを開業して以来、したためてきた当コラムが250本に達した。人様には取るに足らぬことだろうが、毎回無い知恵を絞ってきた当方には、赤烏帽子などあげたい気もする。

さて、本日のテーマは、やはりコロナ禍関連と見せかけて、違うところ?――
史上初の延長五輪となった東京オリンピック2020まで、あと一週間と迫った。首都の緊急事態宣言で国内からも無観客が決まった“通夜五輪”。インド由来デルタ株の猛威を抑えようと、海外からの選手・関係者を隔絶する「バブル方式」の是非が議論されているが、ここで問いたいのは内容ではなく、その命名だ。

高度経済成長時代に少年期を過ごした者にとって、「バブル」といえば、就職後の1986(昭和61)年から1991(平成3)年にイケイケの花を咲かせた好景気時代とイコールだった。
「いいことばかりは、ありゃしない」――はじけたバブルはその後インターネットの普及に伴い、ITバブルとなって再び膨らみ、そして萎み、令和の2020年代にはコロナ・パンデミックが世界を覆っているのに、市場経済だけが好況を呈している。

そんなことをつらつら思いながら昨日、20年ぶりに写真家藤原新也氏(以下敬称略)の時事評論エッセイ集『僕のいた場所』(文春文庫、1998年第1刷)を書棚から取り出し、読んだ。
そのなかの章立てのひとつ『拈華微笑』(ねんげみしょう:言葉を用いずに、心から心へと伝える妙境のたとえ)に目が留まった。
「泡(バブル)ほど世に美しいものはない。」の一文で始め、平成バブル経済崩壊の話となる。本エッセイの掲載女性誌からの依頼で、俳優笠智衆と対談して写真を撮る仕事依頼に応じたことを記す。
それまで、笠の名字を「りゅう」でなく「りゅうち」と思い込んでいた藤原が依頼元に理由を尋ねた。答えは、バブル後しゃにむに働いて遊ぶのに居心地が悪くなり、等身大の自分に返ってささやかだが自然な生き方を探したら、ふさわしい人として笠智衆がいたと。

朱夏、蓼科の鬱蒼と生い茂る樹々の間にある笠の別荘で撮影は行われた。しかし、別荘は柱がかしぎ、クモの巣の張る、廃屋と見まごう小ぶりな木造家屋だった。
田舎の学校の用務員のようないで立ちの笠は、「フジワラさんは、小津先生みたいだなァ」ととぼけた。インタビュアー兼写真家の筆者は、自然体の笠と、座り方や手の置き場所、目線の位置まで指定するのと2通りで撮影したのだが、後者のときに、笠はあまた出演した映画の監督小津安二郎を引き合いに出し、そう冗談を飛ばしたのだ。
写真のプロ中のプロ、藤原は一連の笠の様子に思いをめぐらす。
「映画の中の演技が彼の地だとしたら彼は俳優ではなく、やはりもともとホトケだったのではないか」
それを確かめるため、さらに質問を続ける。
代表作「東京物語」で東山千恵子演ずる妻の死を宣告された時に「…そうか、おしまいかのう」とホトケの慈悲のように微笑んだことを問うと、「気づかなかった」と笠は答えた。つまり、それは演技でなく、地である公算がある。
たまたま、インタビュー前に亡くなった笠の妻との別れの際の、笠の表情を藤原は躊躇しながらも尋ねた。「いやー、…顔のことはなんにも意識したことがないもので」
同席の笠の息子が、質問は相当堪えると思うと言うのを聴いて、藤原は自分の父が母に先立たれた時、父が生涯一度だけ号泣したことを思い出すと、笠の顔のアップ写真を執拗に取り始めた。
その顔は時にはオパールの原石、時には能面、そしてホトケ、痴呆人、翁と変化し、ついに俳優という円環をめぐった。しかし、遠くの森でカケスが鳴き、それが止んだ一瞬、「哀しみの奈落に落ちていくかのような目」がファインダーに映り込んだ。

「拈華微笑」とは、釈迦が大衆を前に金波羅華という花を無言でひねり、誰もが首をかしげる中、弟子の迦葉(かしょう)だけが微笑して応じたことから、仏教の真理が無言で伝授される様子(以心伝心)を表した表現という。
翻って二千数百年後の現代。コロナ禍で感染爆発を防ぐために会食では黙って食べるのが推奨される。言葉では伝わらないものにこそ、心理が隠されているのか。秘すれば花なり、なのか。それでも、こころ医者の私は、「言葉」という両刃の剣を武器に、人生ひとめぐりの後も、生きていくしかないと覚悟を決めている。


*今回は少し長くなりました、ここまで読んでいただきありがとうございます。得心された(あるいは反論のある)かたは、ぜひシェアかコメントをお願いします。













ウツるんです#38 毒を以て毒を制す(2021.5.16)

 五月もまだ半ばというのに、東海地方が梅雨入りした。こうして、クリニックの診察室から窓外を眺めていると、頭の重みと軽い吐き気を感じる。ただそれは、灰色の空のせいではない。2日前に打ち終えた新型コロナウイルスワクチンの副反応からくるものだ。

 先月23日、医療従事者枠として一回目を接種した。指定先の市民病院受付で記入済み問診票と免許証を見せ、外来待合室に腰かけた。周囲で待つのはほとんど女性。おそらく看護師と医療事務だ。
 「〇〇番の方―」 。午後2時35分、呼び入れられて半そでシャツの左腕をめくる。打ち終えた瞬間、女性医師が「血管に当たりました」と抑揚のない声で漏らした。
 こちらも医師という立場上、澄まし顔を続けたものの、成分が血液に入ったら、などと内心はビビっていた。接種数分後から、口渇、ほてり、全身の熱感が生じた。冷静に振り返れば、接種後の一時的な自律神経反射によるものとわかる。75分後に咽頭痛を覚えた時、この「ワクチン記」を書くために、こまめに数字をメモしようと思い立った。
 接種5時間後に悪寒を覚えた。体温36.8度、血圧137/86、脈拍61、酸素飽和濃度(SpO2)98%と正常。出血痕は1週間以上引かなかったが、生活の支障は全くなかった。問題は二回目接種後だった。

 3週後の5月14日(金)。午前の外来を終え、同じ接種会場の市民病院へ。一回目のような出血もなく、打った直後は軽い熱感のみだったが、ちょうど75分後に前回と同じ咽頭痛が起きたのには少々驚いた。その日午後の外来診療はいつものように終わった。
 翌朝、起きると頭が重い。吐き気もする。体温37.5度。「来たか」。土曜の外来は患者さんが多い。気を取り直して、診察を続けたが、どうにもだるい。診察の合間に体温測定。11時10分、37.8度。昼食後カロナール(解熱剤)400㎎ を服用するも、12時54分、38.5度。200㎎ を追加した。
 なんとか、無事に終わったが、気が抜けたせいもあるのか、倦怠感と頭重感は半端なく、風呂にも入らずに布団にもぐりこんだ。家人は「副反応でしょ」とそっけない態度。こういう時の優しいひと言が大事なのが分かっていないと愚痴がでるほど、気持ちが滅入る。朝まで何回も繰り返す悪寒に悩まされた。

 こうやって記すと、コロナワクチン接種を嫌がる人が増えるのではとも思うが、事実を伝えた。しかし、ここから先が、私の本当に言いたいことだ。
 新型コロナウイルスは「自然」現象だ。だがコロナ禍は「社会」現象に入る。もしまだ新聞記者を続けていたら、コロナ関連で取材したいテーマは山ほどある。
 たとえば、昨今の既存メディア離れ。とくに若者の新聞離れは著しいが、彼らはSNSなどでコロナ情報を仕入れる。いわく、コロナは中国の生物兵器製造で漏れたらしい、いわく、ワクチンは不妊になったり、奇形を生むらしい。
 いずれもデマの類いだが、アメリカ前大統領以来、フェイクニュースはもはや道端にごろごろ転がっている。今朝の中日新聞社会面に、妊婦接種「メリットがリスク」上回る、との記事が出ていた。問題は彼女たちがこの情報をどれだけ信じているかだろう、、と思って紙面をめくると、哲学者内山節氏の寄稿「壊れゆく人工的な社会」が目に留まった。
 「社会はさまざまな信頼、信用、共感といった心情に支えられている」と書き出し、今の若者にとって、企業も、自由、民主主義も信頼できず、その傾向が「コロナ下の1年有余の間に、さらに拡大」したと嘆く。
 そして、日本の伝統社会では災害をおこす自然や煩わしい共同体への信頼と共感があったが、近代的な世界でそれが崩れ、いまや大きな転換期にあると喝破している。

 二回目のワクチン接種後48時間でやっと思考能力が戻り、そんなことを思い巡らせながら、記録的に早い梅雨入りのニュースに浸っていた。
 


 



 


  
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