ウツるんです#43パリと太宰治が結んだ縁(えにし)

師走下旬の日曜日、愛知県稲沢市の荻須記念美術館を訪れた。
地元出身の画家荻須高徳の生誕120年を記念して催された展覧会「―私のパリ、パリの私―」。最終日とあって、鉛色の冬空の下でも駐車場が埋まるほど観客が足を運んでいた。

隣町一宮市の出身者として、荻須画伯のことを当たり前に知ってはいた。しかし、それはいくつかの代表作を観たことのある程度で、「ユトリロや佐伯祐三に似た画風」ぐらいにしか思っていなかったことを、すべての作品を観終わって少し恥じた。その理由は、画伯と私が(直接の関係はもちろんないものの)ある“糸”を通して繋がっていたことが分かったためだ。

1901年生まれの荻須高徳は東京美術学校(今の東京藝術大学)西洋画科を卒業するのだが、入学前に名古屋で通った画塾で、のちに同校で同級となる小堀四郎(1902ー1998)と出会った。
小堀は私の通った旭丘高校(当時は愛知一中)の大先輩で、愛知三中(現津島高)出身の荻須と同期ライバルとなり、両者ともパリ留学を果たした。

小中学校の9年間、連続して一宮市の写生展で入選・入賞した経験のある私は、高校以後は絵を描かなくなった。大学卒業後は絵筆でなく、新聞記者としてペンで稼ぐ仕事についた。
1987(昭和62)年6月、東京新聞の武蔵野通信局勤務時代。太宰治の命日の取材を命じられた。
三鷹市・禅林寺で開かれる「桜桃忌」法要で出会ったのが、小堀四郎の妻、小堀杏奴さんだった。

多くの人には、森鷗外の娘、といったほうが通りが良いだろう。鷗外を敬慕して、その墓のはす向かいに自らの墓を建てた太宰を慕う杏奴さんのことは、東京新聞のコラムや当欄に何度か書いた。
杏奴さんからの年賀状にはいつも、角張った青インキの字体で「冬は流感が怖いので、外出しません。春になったら、お越しください」と書かれ、結局お会いしたのは、私が記者を辞めて医学部に合格した時だった。
その杏奴さんが亡くなって23年余が経つ。「婦唱夫随」のかたちで半年後、小堀四郎が亡くなるが、そのひと回り(12年)前にこの世を去っていたのが、四郎の同志、荻須高徳だった。

こうやって書きながら、大きいひと回り(還暦)の自分の歳月に思いを巡らすと、走馬灯のように、いろいろな人との出会いや別れが浮かんでは、消える。
今年も暮れの押し詰まった時に、同業の心療内科で悲惨な放火殺人事件が起きた。コロナ禍も明けない中、先の見通しは今日の冬空のように暗い。それでも、本日買い求めた荻須画伯の記念誌の写真で、キャンバスに一心不乱に向かう画伯のまなざしに触れると、「明日死んでもいいように生きよ、永遠に続くが如く修業せよ」という古言を思い浮かべるのだ。




ウツるんです#42 勤労感謝の日に思う「パンと美」

勤労感謝の日。パソコンのキーボードを前に夜、こうして一年最後の祝日を振り返る時、脳裏に浮かぶ言葉が「五穀豊穣」と「ひとはパンのみにて生くるものにあらず」。

11月23日は元々「新嘗祭」だった。「にいなめさい」と読む。天皇がその年に収穫された新穀を神前に供え、自らも食す儀式。天皇の代替わり〔践祚=せんそ〕の時におこなわれるのが大嘗祭(だいじょうさい)だ。
敗戦でGHQは戦前の国家神道的な要素をすべて排除したため、国民の祝日として改めて欧米のレイバー・デーとサンクスギビング・デーにならい、「勤労感謝の日」となった。
新嘗祭で米のほかにどんな穀物が供されるのか知らないが、古事記・日本書紀によると、五穀は稲・麦・粟・豆・稗(ひえ)とされる。

ここで、連想は政治に飛ぶ。
先日の衆議院選挙で与党が勝ち、首相となった岸田文雄自民党総裁は、ハト派と呼ばれた派閥、宏池会第9代会長だ。「成長と分配の新資本主義」といっても、どこが新しいのかピンとこないが、宏池会の“開祖”池田勇人元首相が蔵相時代の1950(昭和25)年に放った言葉は政治家失言のなかで最も有名な部類に入る。
「貧乏人は麦を食え」(*)
実際は「所得の少ない方は麦、多い方は米を食うというような経済原則に沿った方へ持っていきたい」という発言だったようだが、後世に残るのは、寸鉄人を刺す(*)の方だろう。

平成バブルの頂点以後、日本経済は「失われた20年」を経て、コロナ禍で先は見えない。上がるのは株価ばかりで、人心のベクトルは逆方向に沈んでいく。
その一方で思い浮かんだのが「ひとはパンのみにて――」の聖書のフレーズだ。
麦食え発言があったのは朝鮮戦争勃発の年だと、社会科が得意だった者ならわかる。だが、同じ年に起きた出来事で忘れてはならないのが「金閣寺放火」だ。
吃音の修行僧が「社会への復讐」のために犯行に及んだとされる事件をモチーフに小説『金閣寺』を書き上げたのが三島由紀夫だった。

これに関して書き始めると夜が明けそうなので、別の機会に譲ろう。ただ、その20年後、市谷自衛隊で自裁した三島が晩年に記したエッセイ『果たし得ていない約束』から、引用せずにはいられない気分だ。
「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら、、日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである」

いまや、この国は陸上競技でいうトラックの「第四コーナー」を回り始めているのだろう。国民の6人に1人が相対的貧困と国が公表する時代に私たちはいる。
「食=現実」よりも「美=観念」に従わざるを得なかった三島が、その肉体を鍛え上げた後に退場した時代から半世紀。遺作の題名『豊穣の海』の皮肉を最も知るのは彼自身だったに違いない。三島のそれとは異なる意味で今、私は口をきく気にもなれなくなっている。



ウツるんです♯41 10月10日は体育の日〜再審の法改正を願い〜

コロナ禍ふた回り目の秋。アラ還世代にとって、10月10日は涙目(十、十)の日ではなく「体育の日」なのだが、今年はすでに8月に振り替えられている。結果論だが、これだけ感染者が減ったこの時期にずらして東京オリンピックを開催していたらなあ、と嘆くのは私だけだろうか。

そんな想いにふけりながら、本日は名古屋・金山で開かれた日本国民救援会愛知県本部62回大会に顔を出した。友人の弁護士、鴨志田祐美さんの記念講演「再審制度の課題と大崎事件」を聴くためだ。
鴨志田先生とは、滋賀の冤罪事件で私が西山美香さんを精神鑑定したご縁から知り合った。しかも、同じ法学部で1年違いだったという奇遇もあり、下戸と呑んベエ(失礼)の差を越えて、尊敬できる同志として連絡を取り合う関係にある。

講演の冒頭、鴨志田先生(以下「鴨さん」)は本日の中日新聞社説に言及した。
半世紀前の米国南部が舞台の映画「グリーンブック」 を引き合いに出し、いまだに冤罪が絶えない我が国の法曹界の実情を批難した社説子は、「再審の扉すら開かないケース」として鹿児島の大崎事件を紹介した。
殺人ではなく事故死の可能性が高い新証拠があること、検察が自分たちに都合の良い証拠のみを開示する今の刑事訴訟法の問題を指摘。映画では、留置場に拘留された黒人ピアニストが電話をかけた弁護士がロバート・ケネディ司法長官だったから助かったが、日本には「ロバート」はいないから、再審制度の作り直しが急務と説いた。
偶然にも本日の講演の骨子が ズバリ、書かれている。鴨さんならずとも、なにか見えない糸のようなものを感じずにはいられない。
先日の湖東記念病院事件国家賠償訴訟での滋賀県警による準備書面の内容を見れば、いつ、誰でも冤罪当事者になるリスクがこの国にはあるという「事実」を繰り返し確認していく必要があるだろう。
その後、誤らない、ではなく、謝らない捜査機関をチェックしていくには どうしたらいいのか、大崎事件の主任弁護人を勤める鴨さんは1時間にわたり、発生から40年以上が過ぎた事件と再審の経過に熱弁を振るった。
特に最近はクラウドファンディングで集めた資金で、周防正行映画監督がメガホンを取って実写再現をしたり、現場の様子を3DCGで再現したりと、新しい刑事事件の対応法を示した。

講演後、お昼を一緒した時、分かりやすく流れるような説明の秘訣を訊いたら、もともと演劇を志していて、中学では「無かったので、自分たちで作った」と明かしてくれた。その目元は、涙目(+、+)とは反対極の、決してくじけない細目(−、−)だった。

 
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