ウツるんです#42 勤労感謝の日に思う「パンと美」

勤労感謝の日。パソコンのキーボードを前に夜、こうして一年最後の祝日を振り返る時、脳裏に浮かぶ言葉が「五穀豊穣」と「ひとはパンのみにて生くるものにあらず」。

11月23日は元々「新嘗祭」だった。「にいなめさい」と読む。天皇がその年に収穫された新穀を神前に供え、自らも食す儀式。天皇の代替わり〔践祚=せんそ〕の時におこなわれるのが大嘗祭(だいじょうさい)だ。
敗戦でGHQは戦前の国家神道的な要素をすべて排除したため、国民の祝日として改めて欧米のレイバー・デーとサンクスギビング・デーにならい、「勤労感謝の日」となった。
新嘗祭で米のほかにどんな穀物が供されるのか知らないが、古事記・日本書紀によると、五穀は稲・麦・粟・豆・稗(ひえ)とされる。

ここで、連想は政治に飛ぶ。
先日の衆議院選挙で与党が勝ち、首相となった岸田文雄自民党総裁は、ハト派と呼ばれた派閥、宏池会第9代会長だ。「成長と分配の新資本主義」といっても、どこが新しいのかピンとこないが、宏池会の“開祖”池田勇人元首相が蔵相時代の1950(昭和25)年に放った言葉は政治家失言のなかで最も有名な部類に入る。
「貧乏人は麦を食え」(*)
実際は「所得の少ない方は麦、多い方は米を食うというような経済原則に沿った方へ持っていきたい」という発言だったようだが、後世に残るのは、寸鉄人を刺す(*)の方だろう。

平成バブルの頂点以後、日本経済は「失われた20年」を経て、コロナ禍で先は見えない。上がるのは株価ばかりで、人心のベクトルは逆方向に沈んでいく。
その一方で思い浮かんだのが「ひとはパンのみにて――」の聖書のフレーズだ。
麦食え発言があったのは朝鮮戦争勃発の年だと、社会科が得意だった者ならわかる。だが、同じ年に起きた出来事で忘れてはならないのが「金閣寺放火」だ。
吃音の修行僧が「社会への復讐」のために犯行に及んだとされる事件をモチーフに小説『金閣寺』を書き上げたのが三島由紀夫だった。

これに関して書き始めると夜が明けそうなので、別の機会に譲ろう。ただ、その20年後、市谷自衛隊で自裁した三島が晩年に記したエッセイ『果たし得ていない約束』から、引用せずにはいられない気分だ。
「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら、、日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである」

いまや、この国は陸上競技でいうトラックの「第四コーナー」を回り始めているのだろう。国民の6人に1人が相対的貧困と国が公表する時代に私たちはいる。
「食=現実」よりも「美=観念」に従わざるを得なかった三島が、その肉体を鍛え上げた後に退場した時代から半世紀。遺作の題名『豊穣の海』の皮肉を最も知るのは彼自身だったに違いない。三島のそれとは異なる意味で今、私は口をきく気にもなれなくなっている。



ウツるんです♯41 10月10日は体育の日〜再審の法改正を願い〜

コロナ禍ふた回り目の秋。アラ還世代にとって、10月10日は涙目(十、十)の日ではなく「体育の日」なのだが、今年はすでに8月に振り替えられている。結果論だが、これだけ感染者が減ったこの時期にずらして東京オリンピックを開催していたらなあ、と嘆くのは私だけだろうか。

そんな想いにふけりながら、本日は名古屋・金山で開かれた日本国民救援会愛知県本部62回大会に顔を出した。友人の弁護士、鴨志田祐美さんの記念講演「再審制度の課題と大崎事件」を聴くためだ。
鴨志田先生とは、滋賀の冤罪事件で私が西山美香さんを精神鑑定したご縁から知り合った。しかも、同じ法学部で1年違いだったという奇遇もあり、下戸と呑んベエ(失礼)の差を越えて、尊敬できる同志として連絡を取り合う関係にある。

講演の冒頭、鴨志田先生(以下「鴨さん」)は本日の中日新聞社説に言及した。
半世紀前の米国南部が舞台の映画「グリーンブック」 を引き合いに出し、いまだに冤罪が絶えない我が国の法曹界の実情を批難した社説子は、「再審の扉すら開かないケース」として鹿児島の大崎事件を紹介した。
殺人ではなく事故死の可能性が高い新証拠があること、検察が自分たちに都合の良い証拠のみを開示する今の刑事訴訟法の問題を指摘。映画では、留置場に拘留された黒人ピアニストが電話をかけた弁護士がロバート・ケネディ司法長官だったから助かったが、日本には「ロバート」はいないから、再審制度の作り直しが急務と説いた。
偶然にも本日の講演の骨子が ズバリ、書かれている。鴨さんならずとも、なにか見えない糸のようなものを感じずにはいられない。
先日の湖東記念病院事件国家賠償訴訟での滋賀県警による準備書面の内容を見れば、いつ、誰でも冤罪当事者になるリスクがこの国にはあるという「事実」を繰り返し確認していく必要があるだろう。
その後、誤らない、ではなく、謝らない捜査機関をチェックしていくには どうしたらいいのか、大崎事件の主任弁護人を勤める鴨さんは1時間にわたり、発生から40年以上が過ぎた事件と再審の経過に熱弁を振るった。
特に最近はクラウドファンディングで集めた資金で、周防正行映画監督がメガホンを取って実写再現をしたり、現場の様子を3DCGで再現したりと、新しい刑事事件の対応法を示した。

講演後、お昼を一緒した時、分かりやすく流れるような説明の秘訣を訊いたら、もともと演劇を志していて、中学では「無かったので、自分たちで作った」と明かしてくれた。その目元は、涙目(+、+)とは反対極の、決してくじけない細目(−、−)だった。

 

ウツるんです#40「恥ずかしながら…」終戦の日に思う(2021年8月15日)

「堪え難きを耐え、忍び難きを忍び、、」
終戦の日、玉音放送を直接聞き得た戦前派も76歳以上になった。私たち昭和35(1960)年前後生まれの世代は、高度経済成長期に「近ごろの若いもんは、、」と言われ、反発もしたが、大人にかなわないことがひとつあった。
戦争体験。しかし、今振り返ってしみじみ思うのは、まだ、戦争の“残り香”のあったことだった。
街のはずれの原っぱに行けば、銃弾の薬きょうが転がっていることもあったし、夏休み、空襲で焼け残った廃屋で従兄弟と肝試しをしたこともあった。

そんな戦争を知らない子どもたちにとって衝撃的だったのが、昭和47(1972)年、「横井庄一グアム島で発見」のニュースだった。
当時、私は小学5年生。横井さんが帰国した直後からボーイスカウトでサバイバル術を身に着けた。
ハイクでは道なき道を歩き、キャンプではライターなしで火をつけ、野草を調理して食べた。三つのちかいのひとつ目は「神と国とにまことを尽くし、おきてを守ります」だった。〔創始者は英国の退役軍人ベーデン・パウエル卿〕
なので、いちばんの関心事は横井さんがどうやって戦後28年、異国のジャングルでひとり生活し得たかだった。

先日、「横井庄一さん絵本原画とグアム島生活資料」特別展が一宮博物館であり、これを見逃す手はない、と勇んで出かけた。
愛知県生まれの横井さんは幼少時に親が離婚、祖母の家に預けられ、苦労した。旧姓小学校卒業後、豊橋の洋品店に勤務し、20歳で応召、陸軍で4年務めたのち洋服の仕立て屋を開いた。
昭和16(1941)年再召集で満州へ。19年からはグアム島で陸軍伍長として配属され、米軍と戦った。1万9千人の日本兵が命を落とした。生き残った横井さんらは山中に隠れ、カエルや虫を捕まえて飢えをしのいだ。
昭和20年8月15日の終戦の報せはグアムのジャングルまで届かなかった。War is over (戦争は終わった)の米軍の呼びかけは、罠だと思い込んだ。貴重な食料のヤシは、住民に怪しまれないため、一度に全部を採らずに我慢した。最後まで一緒だった同胞2人も死に、ひとりでの生活が続いた。
さいわい、かつての服職人のウデが身を助けた。パゴの樹皮を剥ぎ、水にさらして糸にした。森の木を集めて機織り機を作り、7か月かけて服を一着、織り遂げた。
30年近いジャングル生活の後、魚採りの川で住民に見つかり、捕まった。56歳だった。
札幌オリンピック開幕前日、帰国会見での横井さんの言葉「恥ずかしながら生きながらえて」は後世に残る流行語となった。
帰国後、好奇の目にさらされ人間不信に陥りかけたところを救ったのが、妻になる美保子さんだった。そして、同級で陶芸家の鈴木青々に習い、焼き物に没頭した。

特別展示では、グアム島時代に横井さんが手作りした生活用品が並んでいた。時を感じさせる錆で覆われた鍋や包丁に交じって、晩年に作った陶器が並んでいた。茄子(なす)の花入れだった。その解説文にこうあった。
「親の説教と茄子の花には千に一つの無駄がない」から、好んで作ったと。
いかにも、すべてをひとりで作り出した横井さんらしかった。

日々の診療で、ときどき若い患者さんが嘆息を漏らす。「私はひとりぼっち。ひとりでなんでもしないといけない」。そんな時、私は決まって、横井さんを例に引く。「あなたが着ている服、住む家、食べる物、全部他の人の作ったものだね。あなたはひとりで家にいても、そういった人たちと繋がっているよね。横井庄一さんと違って」。そういって、ピンとくるひとは、もう令和の時代にはいない。
昭和が、ますます遠くなる。







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