10月10日は体育の日~東京か札幌か~

 時と場合によりけりーーはっきりとした回答がしずらい時に便利な言葉だ。2020年東京オリンピックのマラソン・競歩開催地を札幌で検討中とのニュースにも使える表現。
 大会期間(7月24日から8月9日)の東京の気温など、招致のときから分かり切った話(過去20年の気象庁データでは平均最高気温32度)。それを、立候補の時は「晴れる日が多く、かつ温暖であるため、アスリーㇳが最高の状態でパフォーマンスを発揮できる理想的な気候」とアピールした〔2018年7月26日ロイター記事〕。えっ!と驚くしかないが、時の首相が福島原発事故はアンダーコントロールと発言する国なので、驚く方がいけないのかもしれない。
 スポーツ閑散期の7,8月に視聴者を獲得したい米国テレビ局の思惑に従わないといけない今の商業五輪の現実をロイター記事は強調していた。オリンピック関連収入の半分がテレビ放映権料である以上、それは不可避なのか?
 前々から当欄で主張している、前回東京オリンピックと同じ日程での開催は、結局、米国(=商業主義)主導の前にひれ伏す限り、無理なことは部外者の当方にもわかる。
 こうなったらいっそのこと、マラソン・競歩を札幌でなどとケチなことをいわず、その他屋外競技はすべて東北地方で実施したらどうか?それが東日本大地震からの復興をテーマとすべき、2回目の東京オリンピックのレーゾン=デートル〔存在意義〕というものだろう。えっ?時と場合によりけり、だって?

存命の理~人生をしまう時間(とき)~

東日本にひどい爪痕を残した台風19号。罹災した方々に御見舞い申し上げるのに合わせ、ブログ更新。

二週間前、高校の同級生Aさんからある映画のパンフレットが届いた。「『人生をしまう時間(とき)』下村幸子監督」。埼玉県新座市で在宅医療に従事する外科医らの診療風景をドキュメントで追った作品。台風一過のきょう、映画を名古屋で観た。Aさんは、こちらの志向(思考・嗜好)を熟知していて、パンフレットを贈ってくれたのだと思う。
映画で中心となる医師は森鷗外の孫、小堀鷗一郎さん(80歳)と、かつて国際医療機関医師として開発途上国で働いた堀越洋一さん(56歳)。小堀さんは東大病院で年間千例も手術した熟達の外科医で、定年後の67歳で在宅医療の道に入った。
「職人的に走り過ぎた。今は一人ひとりの患者さんに接して、毎日がフレッシュ」と小堀さんが語るように、高齢社会をひた走る日本の現実が、座席数65の小劇場の縦2m横3mの小スクリーンにあぶり出されていた。
ある85歳の女性患者は自宅2階から降りられず、3歳下の夫が1年以上、食事を運び、トイレの世話までこなしていた。堀越医師や訪問看護師らスタッフが関わることで、一度も入っていなかった風呂に浸かり、さっぱりしたといいながら、「もう風呂はいい」と拒絶。介護環境の整うことが、本人にとってはお膳立ての不自由さにつながったと堀越医師は感じた。しかし、夫の負担を思うと、気軽に元に戻すこともできない。そこには、作り物にはない介護現場の苦悩が表現されていた。

僕はかつて、小堀さんの母小堀杏奴さんと、太宰治の取材を通して親交をむすんだ。いろいろお話を聴いたが、息子の鷗一郎さんのことは、鷗外と同じ東大卒の医者程度にしか伝えてもらっていなかった。映画で「高所恐怖症」と肺がん末期の84歳男性に伝えた鷗一郎さん。もし、どこかでお会いする機会があれば、心の医者として詳しく伺いたい。
映画のある場面で、床に臥す患者さんの床の間に掛け軸が映っていた。そこにあった文字は「存命の理」――

10月10日は体育の日〜カネやん死去に想う〜

10月10日は中学時代の恩師、長谷川金明先生が亡くなった”命日”なので、ブログを毎年書き続けてきた。昭和39年の東京オリンピック聖火ランナーでもあった体育教師が、今から43年前の秋空の下、わずか27歳でこの世を去らねばならなかった無念さに想いを馳せながら、、。

今年は中日・東京新聞でコラム「元記者の心身カルテ」を連載(毎週火曜・健康面)、10月8日付紙面『体動かし心の病治す』で、うつ病の治療には運動が重要なことを書いた。多忙と転勤のため運動を止めた公務員のうつ状態が悪化し、退職となった事例も示した。
この日曜、担当記者Kさんからスマホ送信された”ゲラ刷り”を確認していると、訃報ニュースが目に留まった。
金田正一さん(86歳)死去ーー中年以上の世代には説明不要な不世出のプロ野球400勝投手、カネやん。「えっ」と思った。年齢からいえば、驚くことではない。反応したのは、5年半前に他界したわが父を思い出したからである。
金田さんは昭和8年、愛知県稲沢生まれ。名古屋の享栄商野球部のエースだった。かたや父は同じ8年生まれで一宮高野球部。昭和25年夏の愛知県大会準決勝で両校は対戦した。結果は一宮高が2対1で勝った。(ちなみに決勝では、後にプロ入りした徳永喜久夫投手率いる瑞陵高に負けたが、その年は愛知県で国体があり、瑞陵、一宮高ともに出場した)
卒業後、野球をやりたかった父は東邦ガスに入り、社会人野球を続けた。そこで母と職場結婚し、僕が生まれた。小学校入学直後から父とキャッチボールをした僕は、少年野球で中日ドラゴンズマークのユニフォームを着てプレイし、後にドラゴンズの親会社である中日新聞に入社した。

昭和ひとケタ世代の父は、口下手で頑固だったが、酒がまわって昔話になると、カネやんの話題になった。享栄商との試合で金田投手からヒットを打ち、試合に勝って国体に出たと。一方で、「あれほど速い球は見たことなかった。プレイボールの球がバッターの頭上はるかに上回り、バックネットの網に挟まったまま落ちてこなかった」とその球威を懐かしんだ。
いまや、長谷川金明先生も、金田正一投手も、わが父小出博己も、彼岸の人となった。向こうの世界は知るよしもないが、きんめい先生はたぶん走りながら指で洟を飛ばしているだろうし、父親はカネやんの剛速球に向かってバットを振っているだろう。



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