ウツるんです#46“一匹狼”からのエール

患者の皆様、院長ブログ読者の皆様、3か月ぶりの投稿です。これはひとえに、筆者の怠慢によるものですが、日々の診察のほか、一ヶ月半に一度の中日新聞でのコラム(「Dr.'sサロン」)、ほぼ毎月のForbes JAPAN原稿の執筆で、本人としてはむしろ「書く」ことに専心している気分であると、冒頭言い訳して、本日の中身に入ります。

私も精神鑑定で関わった滋賀の冤罪事件、湖東記念病院人工呼吸器事件(呼吸器事件)は、刑事事件では被害者西山美香さんの無罪が確定した一方、民事事件では国と滋賀県(捜査・司法当局)を相手取った国家賠償訴訟が進行中です。
再審無罪を勝ち取った呼吸器事件は、地元マスメディアの中日新聞による連載記事が大いに貢献し、その中心となった秦融編集委員がまとめた書籍『冤罪をほどく』(風媒社)が、真相を余すところなく伝えています。
一連の報道は先年、石橋湛山記念早稲田ジャーナリスト大賞(草の根民主主義部門)などに輝いていますが、秦さんの同書が本年度の講談社本田靖春ノンフィクション賞を(鈴木忠平著『嫌われた監督』と同時)受賞したと、秦さんから連絡があり、取る物もとりあえず、伝えたくなったのです。私はかつて記者として働いた中日新聞で、秦さんと同期生という間柄です。

偶然というのは、こういうことを言うんでしょう。いつもなら入浴している午後11時、湯上りのパジャマ姿でNHKテレビをつけると、ドキュメンタリー「事件の涙」が始まりました。タイトルが「無実の死刑囚~免田栄えん罪事件~」と映し出されたので、画面に見入りました。
免田事件は、1948(昭和23)年、熊本県人吉市で起きた強盗殺人の冤罪事件です。当時22歳の免田栄さん(2020年死去)が逮捕され、死刑判決が出ました。34年以上獄につながれ、無罪判決が出たのは1983(昭和58)年でした。

判決のとき、私は早稲田大学法学部4年生でした。マスメディア就職を考えていた時期だったので、初の死刑囚無罪の判決はよく覚えています。「裁判所も間違える」ーーそれが後年医師となり、呼吸器事件に関わってからも、私の脳内に通底音として鳴り響いていたと、かっこよく言えば、言えます。

NHKでは、事件当時からずっと免田事件を追って来た地元熊本日日新聞の元記者高峰武さんを中心にストーリーを展開していました。
免田さんが死の1年ほど前、高峰さんに段ボール箱20個分の資料を託したことが伝えられました。その中で、免田さんは第一回公判からの証人調書を全部書き写し、ひとつひとつ、疑問の個所に赤字で修正を加えていたことが判明します。たとえば、凶器は当初のピストルから日本刀、角棒、斧、そして最後は鉈(なた)と変遷。すべて、警察の誘導尋問と暴力によるでっち上げ調書です。

これを観て私は、呼吸器事件と同じだなと、感慨を新たにしました。一部関係者間では、免田事件などの冤罪は戦後のどさくさの時期だったせいだと言われていますが、
嘘をつけ!嘘をつけ!嘘をつけ!
太宰治ならきっとそういうでしょう。

改めて、ここまで読んで下さった皆さんに、戦前でも令和でも、ひとの心に本質的に違いがあるわけではありません。嘘だと思ったら、上述の本田靖春ノンフィクション賞を獲った秦融著『冤罪をほどく』(風媒社)をひもといてみてください。解るはず、です。
元読売新聞の本田靖春さん(故人)は、私が東京・墨田区の警察回りだった時の記者クラブ「墨東記者会」の大先達です。記念に作った江戸提灯はもう破れてしまいましたが、「ジャーナリスト魂」は敗れないようにと、こころ医者を続けながら思う、きょうこのごろです。









ウツるんです#45 桜散る春~「卒業忌」30年に思う~

2022年4月25日はロック歌手尾崎豊の没後30年。
有名作家の忌日には「桜桃忌」(太宰治)や「河童忌」(芥川龍之介)など、故人の作品を基に命名されるものが多い。だが寡聞にして、この不世出のロックアーティストの忌日名を知らない。

そこで、尾崎ファンを自認する私が、尾崎の命日を「卒業忌」と名付け、30年追悼文をしたためたい。

尾崎の人となりについては、ForbesJAPANに掲載した私の文章を参照されたい〔前編:「境界」を駆け抜けた尾崎豊の『卒業』に、精神科医が贈る言葉(https://forbesjapan.com/articles/detail/46976)、後編:「自由」を30回、「愛」を182回歌い上げた尾崎豊。31回忌に精神科医が思うこと(https://forbesjapan.com/articles/detail/46977)〕。

当欄では尾崎が残した歌の作品論を中心に語りたい。

過剰なまでに溢れる詞が尾崎の曲の特徴なのは、多くの識者が指摘する通りだ。
尾崎は曲を作る際、まず大学ノートで構想を練り、その文章を再読しながら詞と曲を紡ぎ出した。2ndアルバムの曲『存在』の時は、ノートをまる一冊分も費やしたという。

尾崎の代表曲として、『15の夜』と『卒業』が挙げられる。
両曲の歌詞 ♪盗んだバイクで走り出す♪と、♪夜の校舎 窓ガラス壊して回った♪ は確かに、校内暴力吹き荒れた80年代、「10代の代弁者」としての地位に尾崎を祀(まつ)り上げるキーワードとなった。
しかし、尾崎自身はそれを望んでいなかったし、ForbesJAPANで書いたように、彼の一番重要なパートナーだった須藤晃プロデューサーも『卒業』を「内省的なエレジー」と捉えている。

もとより歌は、歌詞だけ、曲(メロディー)だけでは成立しないし、その詞を分析してみても益多しとは言えないが、尾崎の場合は特別だろう。

『15の夜』と『卒業』の歌詞についての優れた論考を、ライターの見崎鉄氏が『尾崎豊の歌詞論 盗んだバイクと壊れたガラス OZAKI YUTAKA』(アルファベータブックス)で展開している。
たとえば、音声学では濁音には大きさや力強さという「音象徴パターン」があることに触れ、
♪やりばのない気持ちの扉破りたい/校舎の裏 煙草をふかし見つかれば逃げ場もない♪ (『15の夜』)
と「ば」の頻用を示し、
♪心のひとつも解りあえない大人達♪(同)
の「解りあえない」という言い方には、解ってくれないという一方通行ではなく、大人と互角であるという自負があると分析する。

論考の中心は「なぜ盗んだバイクが必要なのか」だろう。
見崎氏は書く。「昼の世界(=学校)が「秩序」を意味するなら、夜の世界は「混沌」である。、、
日常世界の秩序から解放されたそこへ行くには、〈盗んだバイク〉という昼の価値や規範では不正とされる方法で入手した道具を用いなければならない」
夜という異界を巡るには、浦島太郎の亀や『銀河鉄道の夜』の汽車、『となりのトトロ』の猫バスに相当する移動手段が必要だったという。
しかも重要なのは、『15の夜』で歌うのは盗んだバイクで疾走するスリルや興奮ではなく、「街に象徴される大きなシステム」への無力感に気づくのが15歳という年齢だったということだ。

高校3年の終わりの位置から書かれた『卒業』でも、尾崎の客観的かつ俯瞰的な目線(「離見の見」)は変わらないと見崎は考察する。
15歳ではバイクで逃げることしかできなかったのが、18歳では夜の校舎を襲撃する力を持つことができた。もちろんそれは、ヤンキー系少年の破壊行為ではなく、昼の象徴であり壊されることを前提として存在する学校の窓ガラスにむかう、繊細な心の持ち主としての〈俺〉が、ありきたりの日常を終わらせるための手段と捉えるべきという。全く同感である。
「『卒業』という歌は、学校の支配からは卒業できても、次々に待ち受ける支配からは永遠に卒業できないという歌」(同書)

こうした詞(言葉)を産み出す感性はどこから来たのか?

尾崎の5歳上の兄康氏は、早稲田大学法学部で私と同級生だった。面識はないが、彼の著した『弟尾崎豊の愛と死と』(講談社)からは、唯一の兄弟への断ちがたい追慕の情が、法律家らしい冷静な筆致で伝わってくる。
あとがきで康氏は、こう記す。「本書では豊の音楽のことについては触れていない。僕には全くその方面の素養がない」「もっともそんな僕でも、井上陽水の傑作アルバム『氷の世界』は持っていて、小学生だった豊はこれをよく聴いていた」

康氏とほぼ同年なので当たり前ではあるが、私も中学一年の時、愛知県の地方都市で『氷の世界』に聴き惚れていた。その中の一曲「桜三月散歩道」が大好きで、以前当欄でも言及したことがある。(2016年3月25日付)。統計上3月に自殺者が一番多いことを基に書いた。
♪町へ行けば人が死ぬ,,,今は君だけ想って生きよう だって人が狂い始めるのは だって狂った桜が散るのは三月♪

尾崎豊が熱狂的に支持された背景として、上述の若者に支持されるソング・メーカーとしての面のほか、何人もの海外のロック・アーティストのように26歳で桜のように逝った劇的な人生がある。しかも、最期は自殺か他殺かと世情を揺るがした。30年前の追悼式には吉田茂、美空ひばりの時並みの4万人のファンが雨の東京・護国寺に参列した。

早くから、生きることへの根源的な問いかけを続けた尾崎。その中心的なテーマは「愛」だった。
『卒業』で♪愛することと 生きる為にすることの区別迷った♪と歌った。
泉下の尾崎には、4歳年上の私から、文豪ゲーテの言葉を贈りたい。
*愛しもせねば 迷いもせぬ者は もはや埋葬してもらうがいい*
だから、尾崎豊は墓地に眠らぬまま、いつまでも〈俺たち〉のそばに、いる。








ウツるんです#44 「隆明忌」10年に思う

コロナパンデミックが3周目に入り、ウクライナへのロシア軍侵攻が止まず、東日本大震災から11年が経った令和4年3月。きょう16日は、吉本隆明の没後10年。
若い人にはピンと来ないかもしれない。平成なら吉本ばななの父と言えばよかったが、令和の今は、吉本?Who?吉本新喜劇の関係者か、と言われかねない。

ネット事典で引くと、詩人で評論家と出てくる。全共闘世代にとってはカリスマ的存在だった吉本隆明の名前を本名の「たかあき」でなく、「りゅうめい」と覚えたのは、今から40年前の早稲田大学時代だった。
同年輩よりも年長者にシンパシーを感じていた昭和50年代。早大の英語サークルWESSで一緒になった同郷のA君から教わったのが、社会学者の真木悠介(見田宗介)と吉本隆明だった。

最初に買い求めたのが「共同幻想論」。ひと言でいえば、国家や共同体と個人の関係性を問うた本なのだが、正直、よくわからなかった。
目次には順に、禁制論、憑人(つきびと)論、巫(かん)ナギ(巫扁に見)論、、と難しい漢字が綺羅星のごとく並んでいた。通読のできないまま、時が流れた。

後年、精神科医となって、禁制(タブー)論の項目が多少理解できるのを感じる。精神分析の始祖、フロイトが援用されているからだ。タブーと深く関わるのが抑圧という概念だ。
 抑圧とは、心の中心にある自分自身(=自我)を脅かす願望や衝動を、自分の意識の底に閉じ込めようとする防衛機制のひとつ。日々の診察で、氷山の水面下の部分だよなどと説明することがある。
抑圧は心を守るために誰にでも生じる自動装置であり、治療の行方は抑圧への気づき次第という面がある。

吉本は禁制論の中で、フロイトの著作「トーテムとタブー」を引用し、独自の説を展開する。
「未開種族」だけでなく、人間一般にみられる性的な抑圧を、フロイトのように個人に固有の現象ととらえず、カップル間の〈対なる幻想〉の世界ととらえるべきとする。これに対置して、国家とは、成員たちによる〈共同の幻想〉としてとらえる。背景には、マルクス・レーニン主義の国家観である史的唯物論への反駁がある。

ここではこれ以上深入りする余裕がないが、2020年7月、NHKのEテレ「100分de名著」シリーズ(講師・先崎彰容日本大学教授)で「共同幻想論」が放映されたので、それを参照しよう。

1924(大正13)年、吉本は東京・月島に生まれた。「船大工の息子」で工学が専門の戦中派であり、皇国少年を自負していた。それが敗戦により、世界が反転する。
昨日の善は今日の悪、という図式に乗る知識人の浅薄さについていけない感情の原点をとことん追求した。
基本を「大衆の原像」に置き、当時の若者のナイーブな心情を代弁し、左翼を中心とした層に支持を得た。
一方で吉本は、自身が詩人であり、文学から出発したことに誇りを持っていたという。

私の手元に、吉本による「日本近代文学の名作」(毎日新聞社、2001年)がある。
夏目漱石から始まり、戦中戦後の坂口安吾、太宰治までの、作家24人の作品評論。高齢による視力の衰えを理由に記者へ語り下ろした文章なので、逆に読みやすい。
その中で、安吾の「白痴」を評した文章に、こうある。
「敗戦直後のわたしは『動員学生崩れ』だった、、『文化国家建設』などウソくさかった。これが戦後文学に対するわたしの向かい方だった」

最後の項目は、二葉亭四迷の「平凡」。
私はロシア文学が専門の二葉亭作品を読んだことがない。吉本によると、「文学を真正面から弾劾した文章が続き、恐ろしい感じさえ受ける」のが「平凡」という小説だという。
何人もの文学者と喧々諤々(けんけんがくがく)の議論を交わした吉本自身をほうふつとさせる表現だが、最後に「ロシアという国は絶えず膨張しようとしてきた。ロシア文学者は、どうしてもこれと対峙してしまう、、それが彼らを国士的にするのかもしれない」と記している。

なんだか、いまのロシアの現状を見るにつけ、吉本の眼力の正鵠さに改めて唸る令和の春ーー


*付言;吉本隆明を語るのに、この短いコラムでは全く足りないと感じた。とくに、機会があれば、村瀬学著「次の時代のための吉本隆明の読み方」(言視舎)について、ぜひ言及したい。













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